嵐は人知れず近付いてくる
「つ、疲れた…」
はやっとお妙から解放され、また一人で江戸の街を歩いていた。
彼らとの時間は実に楽しかったが、流石にあんなに何着も着せかえられると疲労する。
志村家での不可思議な一件を思い出し、は心の中で頭を抱えた。
何の前触れもなく現れたのは、間違いなく彼女の命の恩人である近藤だった。
すっかり忘れていたが、近藤はお妙の重度のストーカーだ。
仕事中だというのに、いい大人が何をしているのか。
ましてや彼に命を助けられ拾われたのかと思うと、はなんだか切なくなってくる。
近藤勲とは単純な人間だ。一途で善人。見切り発車で猪突猛進。
あれでよく一組織のトップが務まるなと、は不思議でならなかった。
彼女の家族の事を聞かれた時だって、親はいないし帰るところもないといえば予想通りの勘違いをしてそれ以上深くは突っ込まず、真選組に置いてくれると言った。
嘘ではないけれど相手の勘違いを誘う言い方に申し訳ないと思いつつ、それ以外にには説明のしようもなかった。
異世界から突然やってきて、殺人現場に遭遇しましたと説明したところで病院に監禁されてしまう恐れもある。
幸いにも、彼女はいまだ真実を語る必要性には迫られていない。
しかしながら、彼女の中で全く罪悪感が生まれないという事とは別である。
それに、突然何の前触れもなくトリップしてしまったのだ、同じように突然元の世界に戻る事もあると彼女の頭の片隅にあった。
来る事が出来たのだから、恐らく何らかの形で帰る事も出来る。
それが物語のお約束であると、は何の根拠もない自信があった。
今のところ何故ここに来たのかどうやって帰る方法があるのか、彼女には皆目見当もつかないが。
『ちゃん!!今日からオレ達が君の仲間だ!!独りじゃないからな!!』
数日前の情景が、の中で繰り返し再生される。
近藤勲という男は、そんなくさいセリフを大真面目に簡単に吐くのだ。
出会ってまだ数日しか経っていないに。
彼女に言葉を紡いだ彼の目は、あまりにもまっすぐだった。
今日の外出でも、彼は相当彼女の身の危険を案じていた。
それは、件の殺人事件の唯一の目撃者である事も一つの要因である。
不安要素をあれやこれやと長時間かけ並べたて、必ず五時までには帰宅するようにとに口を酸っぱくして言いつけた。
そこまで心配してくれる事に疑問を覚えつつも、はなんだかくすぐったくて悪い気はしなかった。
はこのむず痒い感覚を知っている。
優しくて温かくて、心地いい。彼の与えてくれるものが、にあの人を彷彿とさせる。
声も話し方も顔も何もかも全然似ていないけれど、近藤の持つ温かさはの大好きな人のそれと似ていた。
それだけではない。強面の土方やその他の隊士たちも、何かとに協力的だった。
今日の買いだしでも、あれを買うのならここが良いだのなんだのと地図を引っ張り出して解説してくれた。
見た目ほど彼らは怖い人間ではない事が、の心の真ん中をほっこりと温めてくれる。
それを嬉しく思うと同時に、には一抹の不安が過る。
来た時と同様に、突然元の世界に戻ってしまったから彼らはどうするのだろうか。
心配してくれるのだろうか?何の感謝も恩も返せず、自分は突然彼らの前から姿を消すのだろうかと。
ふと、目にとまった団子屋からとてもいい匂いがしてきた。
香ばしく、甘ったるい匂いが辺りに漂う。店の前にはそれなりの長さで列ができている。
自分のお金ではないけれど、買って帰れば彼らは喜んでくれるだろうか。
一緒に食べてくれるだろうかと思いながらはその列へと加わった。
せめてこの世界にいる間だけは、出来るだけ彼らに迷惑をかけずに自分の出来ることで力になりたいとは心から純粋に思うのだった。
一通りの仕事を終えて戻ってきた松本は、先程届けられた書類に目を通し重々しく息を吐き出した。
三日前に依頼した調査資料の返答が、やっと彼の手元に戻ってきた。
彼の目の前に揃えられた書類は、彼の疑念を確信へと変えた。
その資料の内容は、つい先日拾われてきた少女に関する内容だった。
彼は口元に蓄えられた髭を意味もなく何度か撫でつけた。
「じっちゃん、ちょっといいか?」
障子の向こうからかけられたのは、近藤の声だった。
松本は広げられていた資料を手早くまとめると、机の引き出しへとしまった。
「入ってこい」
彼が入室を許可すると、近藤が障子をあけて中に入り手近な畳へと腰を下ろした。
心なしか松本の目には、近藤が浮かれている様に見えた。
「何用だ?また面倒事ではないだろうな」
松本の言葉に近藤は顔に浮かべたニヤニヤ笑いを更に深くした。
「実はな、皆と話し合ったんだけどよ。ちゃんを
「預かるだと?」
近藤の言葉を鸚鵡返しに問いかけた。松本の中で嫌な予感が過る。
「そ、ちゃんを
松本の気も知らず、近藤は胸を張ってのたまう。
「じっちゃんにもこれからあの子の事よろしく頼むよ!」
松本は逡巡した後、重々しく頷いた。
「あい分かった」
「じゃ、仕事に戻らんとな」
近藤は用件だけを告げると、さっと立ちあがり出口へと向かう。
「近藤」
松本は彼の背中へと、無意識に呼びとめていた。
振り返った近藤は、不思議そうに松本を振り返り彼の次に続く言葉を待っている。
「いや、何でもない」
しかし、松本は呼びとめたにもかかわらず、その先を紡ぐ事を躊躇った。
「なんだよじっちゃん、気色悪ィな」
普段からシャキシャキと物を言う彼にしては、酷く歯切れの悪い態度だった。
近藤が茶化しながら、彼が言おうとした言葉の先を促す。
松本はやはり真実彼が言いたかった言葉を飲み込み、変わりの言葉を彼に投げかけた。
「あの娘はお前たち野蛮人と違って普通の女の子だ。重々心しておけ」
「んなの分かってるよ!」
近藤は今度こそ彼の部屋を出て行った。
近藤が完全に立ち去ったのを確認し、松本は先程の資料を取りだし再度確認した。
「まったく…なんて子供を拾って来よったのだ。あの馬鹿は」
松本は誰に言うでもなく、苦々しく胸の内を吐露した。
彼は一人、確かに波乱の予感をひしひしと感じていた。
2015/07/04 再投稿
2011/07/19