何かを護れてこそ一人前
いつものように稽古着に身を包んだ幼いは、自分よりも何倍もの大きさのある男を見上げていた。
「いいか、今まではお前が生きるために剣術を教えてやった。けどなぁ、これからお前に教えるのは、大切なものを守るためのチカラだ」
少女は彼の言っている意味が分からず、首をコテンと横に倒した。
「何が違うの?」
幼い少女には、言葉の意味が分からなかった。やることには大して変わりなんて無いはずなのに、いったい何が違うというんだろうか。
「自分のためじゃぁねぇ。誰かのために、何かのために使う力だ」
やっぱり少女には分からなかった。何がどう違うのか。どことどこが違って、どことどこが同じなのか。
彼女がますます分からなくなって、難しい顔をするのを男は可笑しそうに豪快に笑った。
「餓鬼にゃぁ難しいか。まぁ、いいや。その内わからぁ」
男は愉快そうに笑うと、肉厚で節くれだった掌で豪快に少女の頭を撫でた。
幼い少女はその手が大好きだった。少し加えられる重さに、いつも心地よさを感じる。
その大きな手がすっと離れると、男は屈んで小さなに視線を合わせた。
は知っている。
いつもふざけてばかりでの事をいつもからかってくるこの人が、こんな目をする時は大切な事を言う時だ。
「だがなぁ、絶対にこれだけは覚えておけよ―――」
厳かに紡がれた音は、の耳朶を優しく震わせる。
彼女の耳に甦るのは、大好きな人の声。
彼女の眼に映るのは、あの時の大切な人の真剣な眼差しだった。
その眼がまるで、今のに何かを語りかけてくるように訴えてくる。
「いざ尋常に」
その声で目の前の幻影は消え、彼女は幼い時分から今に帰ってきた。
の目の前にいるのは彼女の一番大事な人ではなく、真剣を構えた沖田だった。
同時に胸に押し寄せてきたのは、虚しさだった。
は一気に現実を目の当たりにし、自分の愚かさに全てが馬鹿馬鹿しくなった。
本当にこのまま刀を振るっても良いのだろうかと、彼女は自問する。
彼の人が教わったものは、こんな意地の張り合いのためではないと彼女は自答する。
彼女は自分の実力を披露すれば良かった。
それは既に充分彼らに見せつけられている筈なのである。
誰かを護るために、大切な何かを護る事の出来る力を彼女の大切な人は彼女に教えてくれた。
彼女はあの人をあの日の事を思い出して確信する。
誰かのために使う為の力を、人を傷つける為にその術をすり替えて良い筈がないのだと。
「始め!!」
沖田は号令と共に、に高速で肉薄した。
それはまさに一瞬である。
しかし、対するは号令と共に目を閉じて構えていた右腕を下ろした。
目を開けなくても、彼が一瞬で迫ってくるのが分かった。
彼女は薄い暗闇の中で、痛みが襲うのを恐々としながら待った。
その行動に、驚いたのは沖田だった。いきなり右腕を下ろし、相手は戦意のかけらも見せなくなってしまった。
沖田は何かの作戦かと、一瞬考えたが彼女はピクリとも動かない。
彼は寸前の所で、やっとの事首に迫った刀の勢いを殺した。
彼の剣圧で彼女の長い髪が翻る。それでも、彼女は目を開く事なくじっとしている。
「一体何のつもりですかィ?」
沖田は、全く動かなくなった少女に向けて苛立たしげに言葉を紡ぐ。
少し前までの彼女とは、一転して不可解な行動である。
さっきまでは勇んで相手に挑んでいたというのに、自分に対してはまるで無抵抗である。
沖田の実力に怖じ気づき、戦意を喪失したのか。
しかし、最初に彼女は沖田との対戦を望んでいた。だとすれば、ますます目の前の彼女が沖田には分からなくなる。
一つだけ違っているのは、彼女が青菜を手にした時彼女の持つ雰囲気が俄かに動いたのだ。
何がどうという事は口では説明できないが、彼女の僅かばかりの変化を沖田は本能的に嗅ぎ取ったのである。
はやっと瞳を開き、しっかりと目の前の沖田を見上げた。
困惑と疑念、多少の怒りが入り混じった沖田の顔をその瞳に映した。
逆にの瞳には、敵意も憎悪もなく、凛とした決意の眼差しを沖田へ向けた。
「『魂を込めろ。これは人の命を刈り取るチカラだ』」
静かに落とされた一言に沖田だけでなく、その場にいた全員が意味を理解する事ができなかった。更に彼女は言葉を紡ぐ。
「『自分の大切な物を守るために、魂を込めろ。それがお前のチカラとなる。それが出来ない時、絶対に刀を持つな。刃に殺されるのは、相手じゃない。お前だ』―――そう教わりました」
は迷いも淀みもなく、ただ只管に真っ直ぐに直向きに沖田を見つめた。
あの時、あの人が何を思っていたのかには分からない。
けれど、彼女の心に突き刺さるようにいまだに忘れることが出来ない言葉だった。
は実直に、大切な人の期待に応えたいと思った。守れる人になりたい。
いつか、護られるばかりでなく、自分が守る側になるんだと小さな少女は心に決めたのだった。
沖田は釈然としないその言葉に、少し眉を寄せた。
「アンタは、その青菜を俺たちから守りたかったんじゃなかったんですかィ?」
「もう十分な筈です。あたしは約束したんです。人を傷つける為じゃなく、誰かを護るために剣術を使うって。ここであなたとヤり合えば、あたしはその約束を守れません」
そう言って、力なく笑った。そこには、先ほどまでの冷淡な瞳はなく、年相応の儚げな少女が眉をハの字に下げて微笑んでいた。
彼女の答えに、沖田は僅かに目を見張った。
約束、そんな物のために彼女は今、沖田に殺される事を覚悟したのだ。
どんな約束なのか沖田には知る由も無かったが、彼女はその約束を守るために自分の意地を捨てた。
そして、その約束を守るために自分の命を賭けた。自分の命よりも大切な約束のために。
血みどろの戦場を知る沖田にとって、腹の足しにもならないようなそんな下らないものに命を賭ける彼女が馬鹿馬鹿しいと思う。
そんな下らないことのために、命を賭けるなんて馬鹿げていると罵ってやる事も出来た。
それでも、自分をまっすぐに見上げてくる瞳を、鼻で笑って一蹴することなど彼には出来なかった。
「チッ、興ざめでィ」
面白くなく、憎まれ口を叩きながら沖田は刀を納めた。
しかし、それでは何となく収まりがつかなくて沖田が更に言葉を紡ごうとした瞬間、の体が大きく後ろに傾いだ。
沖田が思わず出した腕に彼女は簡単に納まり、全身を沖田に預けた。
「お、おい」
に意識がないらしく、その瞳は初めて見た時同様に閉じられていた。
沖田の心に、ざわりとしたモノが広がった。
今度は揺すりながらしっかりと声をかけたが、彼女はピクリとも動く気配がない。
道場内がざわっと騒ぎ出したとき、怒号が雷鳴の如く轟いた。
2015/05/17 再投稿
2011/03/04