それは、もうずっとずっと昔のことだった。まだ、あたしたちが小学校に上がるよりももう少し前の話だ。
雲雀家の広い座敷の一室で、あたしと恭弥は、初めて顔を合わせた。

、この方がこれからお前のお仕えする恭弥様だ」
「はじめまして  です。 これからよろしくおねがいします、きょうやさま」

その時、確か恭弥は何も反応しなかったように思う。もう随分と昔の話なので、あまりはっきりとは覚えていない。
自分自身に関しても、あの時何を思ったのか分らない。何も思わなかったかもしれないし、何か考えた様な気もする。


どちらにせよ、あたしたちは生まれる前から決められた掟に従い、少しの異例を混ぜあの時出会ったのである。
それが、良かったのか悪かったのか分らない。掟に従うのであれば、あたしたちは決して出会うことなどなかった。
掟を守るのであれば、あたしたちは出会ってはならなかった。それでも、雲雀恭弥とあたしは出会ってしまった。










    第参羽 影は真朱を抱けども 影の形はありもせず









 春を告げる桜が満開に咲き乱れ、散ってしまったのは少し前の話である。
それでも、この世に名残を残す花弁たちは、この地上を覆い尽くすように地へと舞い落ちている。
それらを一掃するように、暖かい風が吹き抜ける。
梢から降り注ぐ光はまだ優しく、ところどころに主張し始めた緑たちが空に向かって両手を伸ばす。

並盛中学の応接室で、一人の少女は窓辺に佇みそんな外の世界に視線を向けていた。
応接室と呼ばれるだけあって、来客用に革張りのソファがいくつか並べられていた。
そのソファに取り囲まれるようにしてある長方形の机も、匠の技を感じさせられるような木材の濃厚な光沢を放っていた。
室内の奥には大きめのデスクが鎮座し、ソファと同じ革張りの椅子は回転式。
重鎮が腰を下ろすために作られたそれは、いかにも座り心地が良さそうである。

圧迫感を与えない様に他の部屋よりも少し広めに作られたその応接室で、加護は一人で窓の外の風景を眺めていた。
本来ならその部屋の主であり、が付き従うべき主がいる筈であるが、今は日課の散歩へと出かけている。
彼女の主は人とつるむことを極端に嫌う。それは彼女とて例外ではない。
なので彼が来いと言わない限り、彼女が彼と共に日課の散歩へと出かけることはない。
もっとも、彼女にとっては、学校内であれば彼がどこにいるのかなど手に取るように分かる。
それが慣れた気配であると同時に常時殺気を垂れ流している彼は、絶対に人に馴染むことがないからである。

にしてみれば、よく常に殺気を保ち続けて疲れないなと思う。
隠密を得意とする彼女の一族に関して言えば、それは絶対にしてはいけない事であるし何より疲れることである。

今現在も彼女の視線の先には、殺気を垂れ流し校内を我が物顔で闊歩する少年がいる。
どうやら気に食わない生徒がいたらしく、彼のご自慢の獲物で滅多打ちにしている。
その様子を見ながら、彼女は感心する。少し前に見た時よりも、体の動きに無駄がなくなっている。
また、彼は腕を上げていた。おそらくそれは本能での成長だろう。

は、生徒を滅多打ちにしている雲雀を見て、彼は黒い獣の様だと思う。
着ている制服が黒せいかもしれないが、彼の姿はさながら人の皮を被った野生の獣だ。
すらりと無駄な肉の付いていない手足を存分に使い、獲物を咬み殺す。その姿は、洗練され美しい。
あまり動かない表情は、その瞳に獰猛で残虐な光を宿し、嬉々とした高揚を抑え込んだような表情である。
力を求め力を食らい、更に力を求める姿はある種滑稽で雄々しく、なんと気高いことだろうか。

その姿は常人に対して常に畏怖を植え付けるが、のような種類の人間には時として興味と尊敬を与える。
しかし、の瞳にはそのどちらともと少し違った色が宿っていた。
確実に狙った獲物の体へと、重い一撃を与える鍛えられた伸びやかな腕を見ながら彼女は思う。
一体、いつから彼はこんなにも貪欲に力を欲するようになったのだろうか。
少なくとも、初めて出会った頃は、そんなことはなかったように思う。
昔から彼は今のように物静かで、寡黙な少年だった。昔から喧噪を嫌いあまり人とつるむこともをせず、静寂を好んでいた。

もともと我は強かったものの、今よりもずっと可愛げがあった。
小さい頃は、暴力にものを言わすようなタイプではなかった。むしろ暴力というものの使い方を知らないかった。
しかし、小学校を上がった頃から彼の中の個性がすくすくと育ったようだった。
力に対する固執もその頃から強くなっていった。
元来持っていた資質だと思われるが、ここまで極端なものではなかった。
一体、何が彼を変えたのだろうか。何がここまで彼を成長させたのだろうか。



―――そして、自分はそんな恭弥にいつから心惹かれるようになってしまったのだろうか―――



それは、絶対にあってはならないことだった。それは、絶対に許されない思い。
主に必要以上の感情を抱くなど、絶対にあってはならないことだ。
愚かしくも、いつからかは許されない思いを恭弥に抱くようになっていた。
許されないと知りながら、それを殺しつくすことなど出来ずいまだ抱えながら密かに彼を思う。

こうやってひとり残された誰もいない室内で、報われる事のない思いを抱きながら遠くの彼を見つめる。
本来ならそれさえも許されない行動だ。チクチクと彼女の心を傷つけるのは、掟に背いた罪悪感の刃か。
それとも、報われないと知りつつも彼の事を慕う切なさか。
罪悪感と彼への恋慕を天秤にかけ、彼女の心は年相応に不安定に揺れている。
彼の前でそれを決して出さないのは、自身の心を必要に応じて殺すことを徹底的に教え込まれた成果だった。

では何故、この許されざる思いを、殺し尽くす事が出来ないのだろうか。
何度諦めても、何度殺しても気がつけば自分の真ん中にぽっかりと漂うそれは、の中で確かに存在する。

 脳内瞑想に浸っていたの耳に、こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
瞬時に意識を現実に戻すと、彼女のよく知る来客を待った。
コンコンと2回ほど扉がノックされ、野太い声で失礼しますと一声かけられて扉が開かれた。
扉を開いたのは、副委員長の草壁だった。
入ってきた彼には優しくお疲れさまと労いの言葉をかけた。彼はそれに同じ言葉をかけると、室内を見渡した。

「加護だけか。委員長は?」
「恭弥ならお散歩中だよ」

彼女は笑顔で返答した。
草壁はそれに複雑な心境を抱いた。彼女の言う散歩とは、校内見回りの事である。
それを散歩という何の攻撃性もない言葉に言い換えるのは、学校内を探してもきっと彼女位なものである。
その言葉の指し示すのは、暢気な歩くだけのものではな決してない。
彼の歩いた後には、屍と化した生徒が横たわっているのである。
勿論雲雀の側近ともいえる彼女がその事実を知らないはずはなく、それを知ってもなお散歩ですますあたり彼女もひと癖以上ある人物である。
彼女のその愛らしい姿からは暴力的な印象など一切感じられないが、確かに雲雀恭弥の隣にいることに何の遜色もない人物なのである。

「…そうか。これは今日中に提出しなければならなかった書類だ」

そう言って、彼は何枚か束ねられたA4の大きさの紙を手渡した。

「恭弥に渡しておくね」

草壁から受け取った書類を彼女は快く受け取った。

「それにしても、やっといろいろ落ち着いたね」

この何週間かは本当に忙しかった。なので風紀委員でもないも雲雀によっていいようにこき使われていた。卒業式に入学式。
新しい学年の開始のための準備など、様々である。
彼女のおかげで大変仕事が捗っていたため、草壁は非常に感謝している。
彼女に感謝をしながら、ふとある事を思い出した。

「そうだな。もう少ししたらお前の弟は風紀委員に入るんだろう?」

その一言に、は苦笑した。

「違うよ、入らない。でも、草壁君にはあの子に色々な事を教えてあげて欲しいの」
「風紀の仕事をか?」

草壁は首を捻った。風紀委員に入らないのに、風紀委員の仕事をするとはなんとも意味がわからない。

「ん〜それも一つあるかな。恭弥がやってる事をあの子は知らなきゃいけないから」

草壁の疑問に、彼女は少し考えながら返した。
彼女は別に風紀委員の仕事に拘っているわけではない。勿論風紀委員の仕事を知ることは大事である。
しかし、それ以上にあの世間知らずのわがまま坊やに世の中を教え込む必要があると彼女は考えている。

「それに、もっと世の中の事をね〜。あの子本当に我儘だからちょっと人に揉まれないとね」

その役を任せたのが草壁だった。彼は雲雀の下に着くだけあって、とても優秀な人材である。
そして、雲雀に惚れ込んでいるし、面倒見がよく頭の回転も悪くない。
自分の弟の教育係には打って付だと、は考えたのである。

「草壁君には本当に申し訳ないけど、よろしくお願いします。あ!言うこと聞かなかったら、どんどん怒っていいから!」
「肝に銘じておくよ」

その言葉に、草壁は苦笑を洩らす。
実際の弟が喧嘩をするところをまだ見たことがないので何とも言えないが、あの雲雀恭弥と幼馴染である加護の弟である。
おそらく、戦ったところで草壁の負けは目に見えている。
できればそういった状況にならないでほしいと、真剣に心の中で草壁は祈った。

「うん、根は凄く優しい子なの。だから、これから気にかけてやってほしい。よろしくお願いします」

急に声のトーンが低くなり、真剣さを増した瞳に、草壁は疑問を持った。
何故だかそこには切羽詰まったような、必死さが感じられた。

「まぁ、構わないが。加護も勿論サポートするんだろ?」

当たり前のように問いかけられた言葉に、は苦いものを感じた。それでも、彼女はそれを表に出すことはない。

「うん、まぁ程々に。でも、それじゃいつまでたっても甘ったれのままになっちゃうから」

草壁は少し呆れた。可愛い子には旅をさせろというのだろうか。これでは姉なのか親なのか分からない。
それだけ彼女が自分の弟の事を真剣に、思っているということだろうか。
それにしたって、彼女の弟は肉体的にも精神的にもまだまだ子供であり、それが許される時期である。
何をそんなに急ぐ必要があるのかと、不思議に思わずにはいられない。

「まだ小学校を卒業して間もないんだから仕方ないだろう。傍から見てても分かるが、お前の弟は加護の事をちゃんと尊敬しているし信頼している。だから加護も―――」
「それじゃいけないの」

いつになく真剣で、硬い声音が草壁の言葉を途中で遮った。

「それじゃ、いつまでたってもあの子はあたしを当てにしてしまう。それじゃダメなの」
「でも、相手はまだ小学生と同じだぞ」
「家では関係ないの。元服って知ってる?」

急に話を逸らされたような、肩透かしを食らったかのような感じがしたが、草壁はその質問に律儀に答える。

「ああ、昔男子が成人するための通過儀礼だな」
「家では今でもあれを採用しててね。うちの場合13歳から15歳の間に行われるの。アトリは次の誕生日で元服してそれと同時に家督を継ぐことになってるの。だからあんまりゆっくりは…」
「分かった俺も最大限協力する。お前の弟なんだからきっと大丈夫さ」

少し寂しそうに言う彼女に、草壁は力強く頷いてやった。
その答えに安心したのか、はまるで花が咲いたかのように嬉しそうに笑ったのだった。


「何してるの?」


いきなり背後からかけられた言葉に、草壁はギクリと体が硬直した。
の方は分かっていたのか、別段驚いた様子もなくおかえりーと雲雀を出迎えた。

「今日はね、おやつ作ってきたんだ。あ、もしよかったら草壁君も食べてかない?味は多分大丈夫だから」

そう言ってにこやかには、草壁をティータイムへと招待した。
その誘いに草壁はうっかり色よい返事をしようとしたが、自分へ向けられる鋭利な視線に気づき出かけた言葉を慌てて呑み込んだ。
準備を始めているは、それに気がつかない。

「い、いや。せっかくだが、おれはまだ仕事があるから遠慮する。それでは委員長、失礼しました!」
「うん。しっかりやってよ」

草壁はさっさと応接室から出て行ってしまった。

「相変わらず真面目だな〜」

はそんな事を呟きながら、手際よく紅茶を準備する。
彼女のその姿を横目に眺めつつ、雲雀は手近なソファへと腰を下ろし脚を組んだ。
邪魔もののいない居心地のいい空間に、柔らかい紅茶の匂いが広がる。
その香りが、少しささくれ立った彼女の心を静めた。
備え付けの小さな冷蔵庫に近づき今朝持ち込んだ手作りのケーキと生クリームを取り出す。
それぞれのさらにケーキと生クリームをよそう。

「はい」

は雲雀の前にケーキと紅茶を並べてやった。
今日はオレンジシフォンを焼いて持ってきた。
オレンジの皮が生地の中に入っているため少し苦味があるが、生クリームがその苦味ををさらいとってくれるはずである。
シフォンは口内の水分を吸い取ってしまうが、生クリームと合わせて食べることでそれもないだろう。
味は一応無難なはずだ。パティシエのような腕前は持ってないが、今回は綺麗に焼けた。
少しそわそわした心持で、は雲雀がケーキを口に運ぶのを見ていた。
そして雲雀は一言

「にがい」
「え〜」

好評を得れるだろうかと内心期待した分、少しばかりショックは大きいかもしれない。
雲雀は舌が肥えているので、仕方ないが。
ショックを受けつつ、は雲雀の隣に腰掛ける。拳3つ分くらいの距離である。
傍から見ればその近さに恐怖すら覚えるだろうが、彼女にとっては定位置である。
手を伸ばせばすぐにでも触れられるのに、互いの体温を感じることも触れ合うことさえない距離。
つかず離れず、これ以上近づくことは許されずこれ以上離れることも許されない絶妙な距離。
二人の間の絶対的不可侵領域ともいえた。

「そうでもないと思うんだけど…。生クリームと食べたら丁度いいような…」

は自分もケーキを口に運ぶ。
最初にクリームの甘さが広がり、次にシフォン生地のふわふわした舌触りとオレンジの爽快な味が広がる。
言われてみれば、オレンジの苦さが少し後を引くかもしれない。

「僕が苦いって言ってるんだから、苦いんだよ」

雲雀は堂々と、まるで自分の言う言葉がすべて正しいという様に断定的に言い切った。

「さいですか」

その一言に、は適当に相槌を打った。
それでもほんのちょっとだけ納得できなくて、ぶつぶつと何かを言っている。
アトリならきっと美味しいと言ってくれただろうなと、悔し紛れに思ってみる。
あの子は相当食べれないものを作らない限り、そこそこ美味しいと言ってくれる。
ただし、機嫌がそんなに悪くないときだけだが。
ふと、隣の雲雀を見ると、苦いと言いながらケーキを食べる事をやめない。
なんだかんだと言って気に入ってくれたようである。

「次はもっと苦くない様に作るね」
「うん。そうしてよ」

その一言に、はちょっと嬉しくなった。雲雀は良くも悪くも素直なのである。
気に入らなければ食べないし、いらないならいらないとはっきり言う。褒めはしないが。
次頑張ろうと、は浮き立つ心を抑え、満足そうにケーキに舌鼓を打った。

ふと、隣の雲雀を見た。紅茶のカップを持って飲む姿は、明治など西洋文化が普及していない時代に高貴な人間がティータイムを楽しんでいる姿のようだった。
伏せられた瞼はすっきりとしていて、まつ毛が影を作るほど長い。
自分よりも、その辺りにいる女子生徒よりも遙かに美しく綺麗な顔立ちだ。
いつも見慣れている筈なのに、その美貌に引き寄せられるような感覚を覚えるのは何とも不思議だった。

すると彼女の視線に気づいたのか、雲雀が伏せていた瞳を上げを見た。

「何?」
「なんでもない」

視線が交わった瞬間に、は心臓の鼓動が一際大きく脈打ったのが分かった。
しかし、それを何とか押しとどめ平静を装った。雲雀に魅入っていたなど、いえる筈がない。
不協和音の様にトクトクと早くなった鼓動がばれない様に、ケーキに集中した。
ばれてしまっただろうか、チラリと雲雀を盗み見る。
彼女の不安とは裏腹に、特に気にした風もなく雲雀はケーキを食べていた。

それにほっとする反面、何かを期待してしまった心に侘しさの様な感覚が押し寄せる。
気付かれてはいけない、気付いてほしくないと思いつつ、心のどこかでこっちを見てほしいと思う浅ましさ。
自分の中にある矛盾に、はやるせなさを感じる。
全てをぶちまけて、暴露して、その瞬間消えてしまえたら、すっきりとしてどんなにいいだろうか。
そんなことできる筈もないと、自嘲しながら小さく息を吐いた。

「これ、もうないの?」

そんなを知ってか知らずか、雲雀はケーキのお代わりを催促した。呆れといじけた視線を彼に向け

「ダメ、アトリの分がなくなっちゃうもん」

と、は言った。その言葉に恭弥は、ムッと拗ねたような顔になると

「そんなこと関係ない。ほら、さっさとだしなよ」

と、持っていた皿をずいっとに押し付けてきた。
さっき文句いった奴がよく言うよ、と思いつつこれ以上彼の機嫌を損ねるのは心身ともによくないと判断し、差し出された皿を受け取ることにした。





2015/04/02 再投稿
2011/03/08