鳥の名を継ぐ俺達一族は、決して飛ぶことを許されぬ籠の鳥。
かつて大空を羽ばたいていた両翼はもぎ取られ、決して出る事の出来ない籠の中に囚われた鳥。
ただ己が主のためだけに囀り、手足となって従順に働く。
俺は、俺たちはそう言われ続けて育った。
俺の名はアトリ。
不浄の鳥の名を受け継ぐ者。
血に穢れた俺たち一族に人が聞いて羨まれるような話なんてなく、血生臭い過去ばかりが尾を引く。
鳥の名を冠す者として歴史の裏の舞台で隆盛していたのはとうの昔で、俺達の先祖は忌まれたその名を捨てたのにその鎖は今も俺を縛っている。
俺達姉弟には未来がなく、そして俺に残された時間ももうあと僅か。
俺はこのクソみたいな掟に抗えないまま、失ってしまうのだろうか。
第四羽 雛は飛ぶことを知らぬ
春の麗らかな日差しは少し前に過ぎ去り、若葉が芽吹き色とりどりの花々が咲き誇る。どこを見ても目をつくようなの営みの色。
清々しい気候は、少し運動すればじんわりと汗をかくほど暖かい。
厳しかった冬などとうの昔に忘れ去られ、これから来るであろう梅雨に人々は思いをはせる。
住宅街から少し離れたとある一軒に、通常の家では考えられないほど広い庭を持つ家があった。
家の大きさは普通の一軒家と然程変わらないというのに、庭だけは家の面積の2倍は優にある。
そして、周りは外からでは中を絶対に覗けない様に、石塀が敷地をぐるりと一周囲んでいる。
その厳めしい風体は、内と外を明確に分ける役割をしていた。
塀の中の世界と、塀の外の世界とを断絶するための高い塀。
それは、塀の外の全てのものを遮断し、拒んでいるようだった。
庭の中でも一際開けたとある一角に、少年と少女がいた。2人とも身軽で動きやすい服装をしている。
それは現代的というよりも、どこか歴史の古臭さを感じるものだった。
少年は膝をついて地面に蹲り、少女はその少年を見下ろすように仁王立ちになっていた。
呆れと怒りを含んだ視線が、少年を見下ろす。
「13回。13回死んだよ。アー君ねぇ、いい加減にしなよ。やる気出しなさい」
は説教をする教師の様に、静かに弟のアトリを叱る。眉間に皺が寄り、愛らしい顔が怒りを含んでいる。
対して地面に膝をつき、蹲っている少年は少女を見上げながら頬を膨らます。
年相応のその仕草は、いたって普通の少年の物である。
しかし、彼らの周りには土が抉られたような場所や嫌に鼻を突くようなにおいが立ち込めている。
その匂いの中には火薬が爆発した焦げ臭さも混じっている。
彼らの立っている場所は、あまりにも普通ではなかった。
何か大きな銃撃戦でも行われた後の様で、いまだ幼さの残る彼等が立っているにはあまりにも似つかわしくなかった。
また、ここが住宅街から少し離れているとはいえ、民家の中であることもその異様さを助長している。
「うるさいなぁ、今日は調子悪い」
蹲っていたアトリは、そのまま地べたに座り込むと胡坐をかいて不貞腐れた。
「そんなの言い訳にもならないから。いつ何時でも、全力を出せなくてどうするの。そんなんだったら、いつまでも恭弥の力になれないよ」
「別に必要ねーじゃん。あいつ強いし。俺達いなくたって」
苦し紛れにアトリは言い訳をする。
「アー君。そんなこと言っても何の解決にもならないよ」
「そうだけど、こんな平和なご時世に俺達なんか」
「飛べない鳥は 籠の鳥」
の言葉に、アトリは自然と眉間に皺が寄る。
もう何度も何度も繰り返し幼少のころから聞かされているそれ。それは彼らを縛る掟であり絶対の縛り。
「空 飛ぶことを 望むべからず だろ。もう耳タコだっつーの」
忌々しそうに、アトリは吐き捨てる。それは彼の容貌には似つかわしく無い仕草だ。
その顔を見たは僅かに目を細めた。
「世の中があたしたちみたいなのを必要としてなくても、雲雀家があり続ける限りこの定めに変わりなんてないの。もう今日はここまでにしよう」
集中力が切れたらしいは、さっさと家の方へと歩いて行ってしまう。ちぇっと悪態をつきながらアトリは立ちあがった。
尻に就いた砂埃を叩いて落とす。
に続きアトリも家の中へ入ろうとすると、キィーと甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。
二人は同時に鳴き声がした方を振り仰ぐ。そこには一匹の鳥が二人の頭上高くを何度も優雅に旋回していた。
旋回しながら徐々に地上に近付いている。
「伝鳥だ」
伝鳥。それは加護家が代々使ってきた連絡手段である。
一般的には伝書鳩と呼ばれているが、加護家の場合鳩は使わない。特別に訓練された様々な鳥を使う。
その用途に応じて適した鳥たちが使われるのである。今回本家から飛んできたのは、緊急の連絡用に使用される隼だった。
アトリは近付いてくる隼に右腕を差し出してやった。隼はアトリの腕に音もなく降り立った。
ずっしりと感じる重みに耐えながら、ここまで飛んできた隼に労いの意をこめ優しく撫でてやる。
はと言えば、既に屋内に姿を消している。恐らくこれから食事の用意をするのだろう。
そして、本家からきた伝鳥の話を聞かないためだ。彼女にはそれが許されない。
本家からの伝達事項を知っていいのは、アトリだけである。
場合によっては宛てに伝鳥が飛ばされることもあるが、それは極めて稀である。
この家において、彼女に許される自由と権利は極めて少ない。
アトリは彼女の後ろ姿を見送りながら、後ろめたさの様な罪悪感が忍び寄る。
隼はしっかりとアトリの目を見つめながら、歌うようにさえずり始めた。アトリはそれを一音も逃さない様に集中する。
彼らは一族同士でのやり取りで文は決して使わない。情報の漏えいを未然に防ぐためであり、証拠を残さないためでもある。
彼らは鳥の言葉を理解し、それを使うのである。故に彼らは代々鳥の名を受け継いできた。
アトリは伝鳥の語る言葉に耳を傾けながら、だんだんと顔を顰めていった。
本家から来る連絡なんて、基本的に碌なものではない。
だからあまり聞きたくないのであるが、今回は本当に嫌気がさす内容となっている。
そして、それを拒否することなどアトリにはできない。
沈む気持ちを抱えながら、鳴き終わった隼に褒美の餌を与えてやる。
そして、自分も隼に簡潔にさえずる。隼は了解したといわんばかりに頭を一度低く下げた。
それを認めると、アトリは隼を解き放つ。舞い上がった隼は、あっという間に空のシミのように小さくなってしまった。
―――俺も、あんなふうに遠くに高く飛べたら―――
ふと考えてしまった思いを振り払うように、アトリは頭を振る。
そんなこと、望むことさえ許されない世界に自分は生きている。
望むことこそ場違いであり、身の程を知らないにもほどがある。
それは分かっている。分かってはいるのだけれど、どうしても時折考えてしまう。
それは希望というには余りにも小さく頼りない光であり、目標というには余りにも遠すぎた。
アトリは重々しく屋内へと足を進める。少し薄暗い室内は、自分と姉の二人しかいない世界から隔絶された空間。
幼い頃からこの箱庭に入れられ、彼らは育った。自分の親達と住んでいた記憶などない。
もしかしたら本当に、一度も同じ屋根の下で暮らしたことなどないのかもしれない。
それが当然で自然なことだと思っていたが、彼が成長するにつれその事実が如何に異常な事であるか知った。
しかし、それを異常と思えても、それを憂うことを彼はしなかった。
否、それを当然とした生活を送ってきた彼にとって、今更でもあった。
また、その事実がどのようにいけないことなのかも分からなかった。
彼は最低限以上の生活水準は守られていたし、特別監禁などされていたわけではない。
彼らにとってそれが当然で、何より彼はそれで満足していたのだ。
強いて言うならば、愛情などというものは、親からはもらえなかったかもしれない。
それでも、何不自由のない暮らしだ。欲しいものは与えられ、言えば望み通りになる。
ただ、雲雀家がらみの事になるとそうはいかなかったが、それでもそれを差し引いても余りある。
たとえ、愛情を親からもらえなくとも、姉からの愛情を一身に受けていたのだから。
自分の事を何よりも大事にして、母であり姉でもある。
そんな彼女の背中をいつのころからだっただろうか、小さく見えるようになったのは。
「さっき、伝鳥がきて、すぐに来いってさ」
背中を向けているに、アトリは気だるそうに声をかけた。
アトリの言葉には振り返った。穏やかに笑みを湛えて。
いつの頃からだっただろうか、自分の姉を見ていると時折どうしようもなく不安と焦燥に駆られるのは。
「そっか。じゃぁ、さっさと支度しなさい」
は全てを察しているのだろうか、ただ一言だけ返した。
アトリはその返答に、酷く不満を感じた。
どうせ、自分が何を思っているのか分かっているくせに、は絶対にそれを言ってくれないのだ。
「一緒に来て!お願い!」
「言うと思った。嫌だよ、面倒くさい」
アトリは両手を合わせて懇願した。は嘆息しながら冷たくあしらう。
しかし、アトリはそこで諦めたりしない。彼はが自分に甘いのをしっかりと分かっているのだ。
「お願いしますお願いします!いっしょーのお願い!」
「あんた一体何回一生のお願いあんのよ」
は心底呆れたという風に、アトリを見る。
「だって、一人で行くのヤだよ」
「あたしだって嫌だよ」
アトリは真剣な眼差しでをじっと見つめる。
暫くそうしていると、が大きなため息をついた。
「仕方ないなぁ」
根負けするのはいつだってだった。
バタバタと廊下をアトリは着物を羽織って帯を締めないまま、だらしのない姿で走る。
そして、目的の部屋へ着くと断りもなく部屋に入った。
「なぁ俺の帯び知らない?」
「知らないよ〜」
「え〜ない」
簡潔に言うと、アトリは眉間に困ったように皺を寄せた。
は若干のいら立ちの所為で眉間に皺が寄っている。
「決まったところに仕舞わないからでしょ。時間ないのに」
「ないから出して」
いつもながらの不遜な言い方にはイラ立ちを覚えるが、何せ今は時間がないのである。
軽く弟の頭を叩いて部屋に向かった。アトリはそのあとをついていく。
新品の帯を取り出し弟に向き直る。当の本人は準備万端だと言いたげに、彼女の前に突っ立っている。
「ほら、こっちおいで」
呆れ半分で、はアトリを手招きした。アトリは満足そうにそれに従う。
手際良く着つけていきながら、はアトリに小言を言う。
「いい加減自分で出来るようになりなよ」
「ん〜」
アトリは適当に返事をする。本当は出来なくも無いのだが、彼女に着付けてもらったほうが綺麗なのだ。
してもらったほうが断然楽であるし、自分の特権を存分に使わない手は無い。
「ほれ、出来た」
「イテ」
多少の報復なのだろうか、最後に腰をバシッと叩かれた。
「怪力ババア」
ボソッと聞こえない様に言ったつもりだったが、彼女はシッカリと聞こえていたらしく拳骨が飛んできた。
痛いほどの静寂の中、彼等は呼吸音さえ押さえつける様に正座をしていた。
広い謁見の間には、昔の名残がそこかしこに残っている。重々しい空気を生み出している調度品の数々。
今ではもう見る事も出来ないであろう書院造り。襖の取っ手や欄干にさえ細々とした装飾が加えられている。
古き時代にどれだけ繁栄を極めていたのかが窺い知れる。
庭に面した障子は開け放たれ、温かな日差しが部屋いっぱいに降り注ぐ。
その温かな陽光はあまりにも室内の空気とかけ離れ過ぎて、白々しささえ感じられる。
庭は綺麗に手入れされ、目に眩しい程の新緑が煌めいている。
そこには色とりどり、大小様々な鳥達が見え隠れしている。しかし、鳴き声は一切しない。
訓練が行き届いた彼等はまるで、二人を観察する様にじっと静かに見ていた。
上座にはいまだ誰もいない。
下座にアトリが深く首を垂れており、同じく深く首を垂れては廊下の板間にいた。
暫くすると、スっと襖の一つが開かれた。
小柄な老婆が室内に入ってきた。真っ白になってしまった長髪を頭の天辺で綺麗に束ね、質素な単衣に身を包んでいる。
この季節に相応しい薄い若葉の色だ。飾り気が全くない。
年を食っているにもかかわらず、その足取りはしっかりとしていて背筋はまっすぐにのばされている。
嫋やかな見かけとは裏腹に、彼女の纏う空気は張り詰めたように重い。
彼女が室内に入った瞬間、アトリは押し潰されそうな重圧を感じた。もうこれ以上頭は下げられないというのに、自分の意思とは関係無く更に深く首を垂れた。
「久しぶりだな。アトリ」
落ち着いたしゃがれ声がかけられる。姿を見ずに声だけ聞けば、性別は酷く分かり辛い。
「はい、ご無沙汰しておりました。ノスリ様」
アトリが発した音は、緊張からか知らず知らずのうちに硬質な響きを持っていた。
「ん、顔をおあげ」
顔をあげる事を許されたアトリは、ユックリと顔を上げる。
上げた先にいたのは、自分の祖母であり前当主である老婆だった。
彼女はアトリに顔を上げろと言っておきながら、その厳しい視線でアトリを見ていない。
アトリを通り過ぎ廊下に向けられていた。その瞳に嫌悪感が含まれているのをアトリは、シッカリと認めた。
「して、何故呼んでおらん者がここにおるのだ。アトリ」
今度はアトリにその瞳が向けられる。そこには先程の様な不快感は嘘の様に払拭されていた。
グッと両膝の上でで握っていた両手を更に握りしめた。
「はい。私が連れてまいりました」
息が詰まりそうになりながら、ユックリと言葉を紡ぐ。言葉を慎重に選び、一言を発するために神経を磨り減らす。
此処で下手な言葉を言えば、自分では無くに非難の矛先が向かうのをアトリは誰よりも知っている。
「あれは、私につき従うのがその役目。だから、ここに来るのも当然だと…」
「お前の代わりに今は雲雀家当主様に仕えている筈ではなかったか」
すかさず問われた言葉は、が自分の使命を放棄しているのでは無いかと告げている。
喉が干上がった。予め決められた言い訳を慎重に紡いだ。
「はい。その、恭弥、様には急ぎ連絡を差し上げ、了解を得ています。だから、問題は…」
嘘だ。いや、全部ではない。恭弥にはの携帯電話から一言断っている。
ただ、返信を確認してはいない。彼が承諾したのかしていないのかは定かではない。
恐らく後者だろうが、特別問題ではない。多少不機嫌になるだろうが、そこまで気にする必要はない。
目の前のこの老婆さえ欺いてしまえば、なんの問題もないのである。
暫く沈黙した後、前当主は頷いた。
「そうか。さて、本題に入るとしようか。わざわざ呼んだのは何も世間話をするためではない。お前の元服についてだ」
ぐっと、アトリは膝についていた拳を真っ白になるまで握りしめた。大体の予想はしていた。
それと同時に、そうであって欲しくないという思いもあった。出来ればそんな話はしたくない。
今ある現実を壊さないでほしい。ただそっとしておいてくれればいいのに。何もいらない。
今の生活が守られるなら他の何もいらない。しかし、彼のそんな思いとは無関係に、彼の祖母は淡々と話を進めていく。
「恒例通り、お前の生誕の次の日に行うことにした。その日は」
その冷たい宣言に心臓が握り締められた気がした。アトリの口から堪らず言葉が飛び出した。
「あ、あの、ノスリ様」
「今は私が話しているところだが」
ぴしゃりと老婆は非難めいた言葉を、アトリに叩きつけた。
アトリは途中で話を遮ってしまった。いくら次期頭首のアトリでも、前頭首に頭が上がらない。
そして、アトリに注がれる視線はゆらりと不穏な色を宿していた。
「も、申し訳ありません!」
アトリは勢いよく頭を畳に擦りつけた。全身から嫌な汗が滝の様に流れる。
気を抜けば、情けないほど震えだしてしまいそうだ。
「かしこみかしこみ申し上げます。どうか、私の言葉をお耳に入れていただけないでしょうか」
「…いいだろう」
「ありがとうございます」
アトリは取りあえず、胸を撫で下ろした。機嫌が悪ければ、話しさえ聞いてくれない。今日は意外と機嫌がいいようだ。
これはチャンスかもしれない。
「私には、まだ荷が重すぎます。頭首たる力量も経験も浅く、まだまだ未熟でございます!ですから、元服の日取りをどうか、延ばしていただけないでしょうか」
アトリは懇願し、これでもかというほど畳に頭を擦りつける。
「頭主たる者が皆通る道だ。経験はこれから積めば済む話」
「に!に聞いていただければ分かります!俺がどれだけ未熟か!」
アトリは勢いよく顔を挙げ、老婆を見た。彼女は品定めするように、舐め回す様に観察する。
「…良いだろう。お前、申してみぃ」
老婆は彼女がしゃべることを許可した。の名前など、一切その口に乗せない。
そして、は深く頭を下げたまま、語り出した。
「おそれながら、私にはアトリ様が家督をお継ぎになるはまだ早いかと」
の言葉に、アトリは少しだけ希望が見えた気がした。
もしかしたら、延期になるかもしれない。そんな淡い期待が彼の中でゆっくりと膨らんでゆく。
「家督を継ぐのは十五だと分かっているはずだが」
「そのためのでございます。アトリ様は家督を継ぐには、幼く脆弱です。未だに私に勝ったことがありません。精神的にも浮き沈みが激しく、安定的とはいえません。せめて私に勝つ事ができるまで待ってはいただけないでしょうか。それまで雲雀家の事は今暫く私が務めます」
はそこでいったん口を噤んだ。何かを躊躇う様に言葉を選ぶ。
「私は覚悟が出来ています。しかしアトリ様にはまだ、お覚悟が足りません」
「それはひとえに、貴様の力量不足なのではあるまいな」
厳しい硬質な声音が飛ばされた。
「幼少の頃よりお前には次期頭首の世話を任せてきた。全ては次期頭首たる人間に育てるため。それをこなせぬとあれば、別の世話係を用意しよう」
まるで彼女を針の筵にするように、容赦のない言葉が襲いかかる。
不味い、そんなことをされれば、元も子もない。唯自分は、ほんの少しでいいから猶予が欲しかっただけなのに。
「違います!!俺が、俺が悪いんです!!」
「口を慎め、誰も話していいなどと言った覚えはない」
「す、すみませんっ」
アトリは慌てて謝罪する。一方は全く動じた風もなく、言葉を紡ぐ。
「私は誓って、アトリ様の身の回りのお世話を手を抜いたことなどありません。しかし、ノスリ様がそうおっしゃるのであれば、そうなのでしょう」
一度も顔を挙げることさえ許されない彼女は、ただ淡々と自分の答えなければならないことを紡ぐばかりである。
どうして言い訳しないんだと、アトリは焦燥に駆られる。
このままではが仕置きをされてしまうかもしれない。
老婆はパシンパシンと掌で扇を打った。何事か考えているらしかった。
それがまるで何かのカウントダウンの様で、アトリは怖かった。
「延期は認めん。今暫くアトリの事はお前に任せよう」
「ありがとうございます」
「下らん知恵は働かすなよ」
「は」
前頭首は立ちあがり、座を後にした。完全に襖が閉じられた後、重い沈黙が暫く続いた。
ようやく顔を挙げたは、幼い弟に告げる。
「帰ろうか」
その一言は、いやに広い室内に静かに溶けてゆく。アトリは、震える体を押さえつけるので精いっぱいだった。
家の門の前には中型二輪にまたがり、不機嫌全開の雲雀恭弥が立っていた。
は雲雀恭弥に駆けよると、必死に頭を下げ謝っている。
それに対して雲雀恭弥が、彼女に文句を重ねている。
不機嫌な彼はしかし、先ほどよりも幾分か空気が柔らかくなったように感じる。本気で怒っていないのが良く分かる。
そして、を言葉で追い詰め、焦っているをみて楽しんでいる様に見える。
いつもの、いつもの日常だった。さっきまでの全身が見えない重圧に押し潰されようとしていたのとは、まるで世界が違った。
『私は覚悟が出来ています。しかしアトリ様にはまだ、お覚悟が足りません』
覚悟とは、いったい何の覚悟なのだろうか。雲雀に仕える覚悟か。
自分を立派な次期頭首に育てるための覚悟なのか。それとも―――と考えて、その可能性を否定する。
知らない筈だ。これは頭首として産まれた自分にしか、打ち明けられていない筈の事実なのだ。
でなければ、こんな風に何もない様に日々を過ごせる筈がない。優しく笑いかけてくれる筈がないのである。
アトリは知っている。自分という存在そのものが、の存在を否定し傷つけているということを。
何も知らない雲雀恭弥は、腹いせだと言わんばかりにをいじっている。
そんな些細なことでさえ、今のアトリには虫唾が走った。
何も知らないで、何も知りもしないで。
アトリと雲雀の存在がという罪を生み出し、彼女と言う存在を否定しているというのに。
どうして彼のために働かなければならないのだろうか。
がどんな扱いを加護家で受けているかも知らないで、何故。
そんな思いが彼の中で渦巻いていく。屈辱、敗北感、嫌悪感そういったものが一緒になって彼に降り注ぐ。
雲雀は想像も出来ないだろう。自分達がと過ごす最後の一年になるということを。
2015/04/03 再投稿
2011/09/12
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