入学式が無事に終了し、生徒たちは一斉に自分たちに与えられた新しい教室へと担当教員によって先導されていった。
廊下は窓から差し込む春の光のおかげで明るく、校舎全体が新入生を歓迎しているような穏やかさであった。
教室に着けば、お決まりの自己紹介をさせられる。例えそれが、並盛町の恐怖の象徴である雲雀恭弥が統べる並盛中学校でも同じであった。
「俺は、加護アトリ」
アトリがそう言うと、クラス全体にさざ波の様にざわめきが広がった。それもその筈である。
先ほど、体育館で新入生に向け中学校生活を送る上での注意事項を読み上げた、一人の女子生徒と同じ苗字だったのだから。
身長は同級生の平均を少し下回るくらい。大きなくりくりとした瞳を優しげに細め、小さな薄い唇は花が綻ぶように言葉を紡ぐ。
黒々とした艶めく髪は襟足に届くか届かない位の長さに切りそろえられている。
保護欲をそそる様な彼女が当然の事の様に述べたのは、常識とは一線以上ぶっ飛んだ事柄だった。
新入生に入学早々不安を植え付けた少女の名は、生徒全員に鮮明に記憶されていた。
その上級生と同じ名字なのである。驚かないわけがない。
小さな声で囁き合う声を聞けば、彼らの不安と驚愕の意図は明白だった。
「さっきの加護って先輩、俺の姉貴。なんか文句ある?」
アトリは不機嫌を顔面に張り付け、教室を見回した。
大きくくりくりとしたドングリのような眼は、威嚇に満ちた光を宿し、敵意をむき出しにしていた。
本来なら幼さの抜けきらない顔立ちは可愛げで人懐っこさがある顔だちをしているのだが、不機嫌極まりないこの状況では、他者を威圧するだけだった。
彼の一言に教室は静まり返り、生徒たちはアトリと視線を交わさないように自分の机を睨むだけだった。
アトリは苛立たしげにため息をつき、早々に自分の席に着席したのであった。
視線を穏やかな陽気の窓の外へ向ければ、誰もいないはずの廊下に二人の人影が歩いているのが見えた。
それが自分のよく知る二人のものだと分かると、忌々しげに眉間に皺をよせ子供らしく唇を山なりに引き結んだ。
第弐羽 巣立ちの時は未だ来ず
本日の仕事を終わらせたは、いつもよりも急いで家へと向かっていた。
住宅街の少し離れた閑散とした一角に、通常の家では考えられないほど広い庭を持つ家があった。
家の大きさは普通の一軒家と然程変わらないというのに、庭だけは家の面積の2倍は優にある。
そして、周りは外からでは中を絶対に覗けない様に、高い石塀が敷地内をぐるりと一周囲んでいる。
その厳めしい風体は、内と外を明確に分ける役割をしていた。
塀の中の世界と、塀の外の世界とを断絶するための高い塀。
それは、塀の外の全てのものを遮断し、拒んでいるようだった。
その遮られた世界の中には、たった二人の子供しか住んでいなかった。
一人の姉と一人の弟。塀の外の世界では、その家庭状況は異常である。
だが、塀の中の世界では、それは当然のことだった。
彼女らは親鳥たちの作った巣の中で、巣立ちするまでの時間を刻一刻と刻んでいる。
彼女らは、親を知らない。正確には、母鳥を知らない。
生まれた瞬間に母鳥から離され育った彼女たちに、今現在も健全であるかどうかさえ知ることはできない。
生きているのか死んでいるのかさえ、知らない。
知る術も、知る必要も彼女らにはない。それが良いのか悪いのかなど、酌量する余地も必要もない。
彼女らにとってそれが当然であり、日常である。そこに、何の感慨もない。
先に孵化した雛は、当然のように後に孵化した雛の母鳥になり姉鳥になった。
後に孵化した弟鳥は、与えられる愛情を当然のように享受する。
血を分けたたった二人の姉弟はそうやって生きてきた。
アトリは台所から漂ってくる食欲をそそるいい匂いに負け、ひょっこりと台所に顔を出した。
姉のは機嫌が良さそうにエプロンをつけ、アトリに背を向けている。
右手には長い菜箸、左手には先ほど揚げられたばかりの鶏のから揚げが乗った皿を持っていた。
それに誘われるように、アトリは手が伸びる。まだあつあつのそれをひょいっと摘み、口の中に放り込んだ。
「うま」
「あ、こら!つまみ食いしない!行儀悪い」
は自分よりもまだ少し背の足りない弟を上から叱りつけながら、左手に持っている唐揚げが乗っている皿を弟から遠ざけた。
「いいじゃん。腹減ったんだから」
自分から遠ざけられた皿から視線を放し、次の標的へと狙いを定める。
アトリが立っている側に、さっき食べたものよりも小さく作られた唐揚げがあった。
はアトリの視線に気づき、非難の声を上げた。
「ああ!そっちは明日のお弁当用!!もう」
しかし、育ち盛りの雛は待ち切れずに、またひとつ口の中に放り込んだ。
に顔を向けたアトリは、嬉しそうに笑って満足そうに口の中のものを咀嚼している。
その顔に怒る気も萎えてしまい、はため息をついた。
「準備できたからお皿出して。お茶碗と大皿と取り皿ね」
「ん〜」
アトリは口の中のものを飲み込みながら、素直に食器棚の中から言われた皿を出した。
「クラスの雰囲気どうだった?友達できそう?」
二人きりの食卓で、はアトリに母親の様な顔で問いかけた。
「さぁなぁ」
一方アトリは、目の前の食事に意識が持っていかれているため、適当な相槌を打つ。
自分の弟には、普通に学校生活を楽しんでほしいと思っているにとって、クラスに馴染めるかどうかは切実な問題だった。
それを知ってか知らずか、アトリは我が道を行く。
「一緒に体育館に行った子と同じクラスだったでしょ?仲良くできそう?」
「あ〜無理無理。あいつ絶対無理。俺のことビビってたし。男のくせにおどおどしてて、見てるだけでムカつく」
彼の事を思い出したのか、苛立たしげに眉間に皺を刻む。ひらひらと右手と首を振って全く取り合おうとしない。
アトリにとって彼は、生理的に受け付けなかったらしい。
元来誰かさんと同じで人の好き嫌いが激しいく、アトリは人見知りをする。
寂しがり屋のくせに、虚勢を張ることは一丁前にするのだから我儘なのである。
「昔のアー君みたいだね」
迷子の少年の頼りなく、おどおどした姿は幼い頃の弟に似てるとは少し思っていた。
いつも自分の後ろに隠れて、金魚のフンの如く必死に後をついてきていたあの頃は本当に可愛かった。
口達者になった分、あの頃よりは大分可愛げがなくなった。
「違うし!俺をあんな挙動不審で、もやしみたいな奴と一緒にすんなよ」
「今わね〜小さい頃はあんなに可愛かったのに…!!今ではクソ生意気になっちゃったね〜」
はワザとらしく泣き真似をして見せた。
アトリはいつもの如く鬱陶しそうにその仕草を見ながら、箸を進めた。
「お姉ちゃんは、そんな子に育てた覚えはありません!!つまみ食いする子にした覚えもありません!!」
冗談混じりに真剣な顔をしてアトリに憤慨してみるが、口元が笑いそうなのをこらえているのが分かる。
「言ってろ。大体、だって料理してる時食ってるじゃん」
はいはい、と姉の演技を軽くあしらい、おかわりと自分の茶碗を差し出した。
「あれはつまみ食いじゃありません〜味見です〜」
はそれを受け取り、白米をよそいながら唇を尖らせた。
「じゃ、俺も味見。ちゃんと食えるの作ってるか見張り見張り」
アトリはの言葉にのっかると、から茶碗を受け取りご飯を掻きこむ。
「感謝しろ!!もっと感謝しろ!!いったい誰がいつもご飯作ってると思ってんの!?毎日献立考えるの大変なんだよ!!」
右手に持った箸を上下に激しく振り、はいきり立つ。
本気で怒っているのでも、機嫌を損ねているのでもないため全く迫力がない。
むしろ、小動物がキーキーと何か言っている風にしか見えない。
「今日の昼飯六十点」
昼間の恨みを籠めて、アトリはをじと眼で見た。
機嫌はとうに良くなっていたが、アトリは昼間のやり取りを根に持っていた。
吸い物を嚥下しながら姉の様子を観察する。
「くそぅ!!これだけ好きな物だらけなのによくそんなこと言えるな…!!」
一生懸命に頑張ってアトリの好きなものを作ったのに、礼の一つも感謝の色も見えない弟には若干悲しくなる。
「あいつよりマシだろ」
ポロリと零した一言に、は呆れた。
昔はお菓子やおもちゃで注意を他に逸らせば簡単に機嫌が良くなって奇麗さっぱり忘れていたのに、今では腹の底で根に持っている。
男の子なのだから、もう少し細かい事をいちいち気にする事をしないでほしいと思う。
「恭弥?恭弥もはっきり言うよ。薄いとか醤油がきついとか。指摘するところが的確で、結構細かいのよ」
今日の昼食にもケチをつけられたは、思い出して苦笑した。あっちもあっちで何かと変な所に細かいのである。
アトリはの顔を見て、なんとなく何を思い出しているのか察しがついた。
当たり前のように文句を言って、自分の姉を困らせるのがアトリは気に食わない。それは自分の特権であるはずなのだから。
「ったく、ほんとあいつムカつく。何様なんだよ」
お前が言うかとは心の中で呟いた。にとってはどっちもどっちなのである。
両方とも我儘で、子供で人の話を聞きゃしないのだ。彼らにとって気の置けない対象として認められているのは分かっている。
二人とも素直ではないので、彼らなりの唯一の甘え方なのだ。物凄く疲れるが。
「何様って…主様?」
真剣に答えてみたに、アトリは憐れみと軽蔑を含んだ視線を向けた。
彼の姉は可愛らしく小首を傾げて真剣に言っていた。
「頭ダイジョーブ?」
姉のこういうところは、偶に本気で心配になる。ワザとではなく素で言っているので性質が悪い。
まだご主人様と言わなかっただけマシか。と思いつつ、アトリは苦い思いだった。
彼女は真剣に言っているので、救いようがない。というか、自分が何を言ったのかの自覚がない。
アトリとしては自覚して欲しいし、色々警戒してほしい。
自分の言った言葉や仕草が、どれだけ他者の心を擽るのかまるで分かっていないのである。
生まれてこのかた彼女は価値のない存在として扱われ続けてきたので、それも仕方のないことと言えば仕方のないことではある。
はアトリのあまりに馬鹿にした言葉と視線に、怒りながら説教をする。
暫く二人でいつもの口喧嘩をした後、ふと思い出したようにはアトリに告げた。
「あ、そうだ。アー君は副委員長の草壁君に面倒見てもらうことにしたから」
「げ、なんで!?」
いきなり自分の与り知らぬところで決まった話に、アトリは声を上げた。
「だって、アー君あたしの言うこと聞かないし。ちょっと世間の荒波に揉まれてきなさい」
「嫌だよ!あんな時代錯誤の連中となんか!!だってリーゼントだぜ?リーゼント!!俺生まれて初めて見た!!」
「あたしも初めて見たよ」
はアトリに同意するように、うんうんと神妙な顔で頷いた。
それからアトリを安心させるように微笑みかけて、
「皆見た目ほど変な人じゃないし、草壁君は面倒見のいい人だから男社会ってゆーの?教えてもらいなさい」
と、諭すように言葉を紡ぐ。
「あいつに心酔してる時点でまともじゃないね」
の言葉に納得いかないのか、彼の容姿にぴったりの不貞腐れた仕草でポテトサラダに箸を突っ込んだ。
「恭弥は、不思議と人を惹きつける魅力を持ってるんだよ。あたしたちは、身近にいすぎてそれが分らなくなってるだけなんだよ」
はそれを微笑ましく見守りながら、どこか遠い眼をして柔らかくほほ笑む。
「アー君の事も恭弥は、面倒を起こさなければ好きにさせてくれるって許可してくれたからちゃんと勉強―――」
言いかけた言葉を最後まで聞かず、アトリは大きな声で彼女の言葉を遮った。
「あー!!なんでもかんでも恭弥、恭弥、恭弥、恭弥、恭弥!!の頭はそればっか!!俺はあいつなんかの下には絶対つかねぇ!!」
彼女があんな風に優しくちょっと幸せそうに、どこか切なさを帯びて笑うのはあの男といる時かあの男の事を考えている時しかない。
あいつはを傷つけるだけだというのに。
言い切ったアトリはそこではっと、口を閉じた。ここにきてやっと自分の失言に気づく。
「アトリ。掟は絶対に守れ」
さっきまで優しい姉だったの視線が、射殺さんばかりの鋭さに変っていた。
彼女の纏う空気が冷たい鉄を肌に当てられたように、ひやりと不快な冷徹さを帯びる。
「何があっても、絶対だ。そこにあたしたちの意思はない」
口調も視線も、纏う空気も何もかもが180度変わってしまう。これが、彼女の仕事をするときの顔だ。
「加護家の者は、雲雀家のためだけに存在する一族だ。飼われた禽は、籠の中にいればいい。…もぅ、残された時間はない」
は冷めた目で、弟のアトリを見つめた。
そこに温かさなどなく、機械的に彼を見据えた。
射すくめられたアトリは、何も言えずに奥歯を噛み締める。揺れる瞳は悲しさと、怒りに揺れている。
暫くそうやっていた後、静寂を終わらせたのはだった。
「…やめよう。せっかく頑張ってアー君のためにご飯作ったのに、不味くなる」
いつものように優しく笑って、彼女は食事を再開させた。一方アトリは俯いたまま食べようとしない。
そんな弟の惨めったらしい姿に苦笑を一つ零して、彼女は一旦席を立った。
ビクリとそれに反応して、アトリは怯えた様に視線だけでを追った。アトリはどうしようもない不安を抱え、謝ろうかどうしようかと自問自答していた。
するとすぐには戻ってきた。
その表情が照れくさそうに、いつものように自分に微笑みかけていたのに安堵する。
「はい、これ」
そういって差し出された綺麗にラッピングされた箱を受け取る。
「ん?何これ?」
「入学祝いだよ。入学おめでとう。アトリ」
は嬉しそうに満面の笑顔で、弟に微笑みかけた。
優しい姉の笑みに、彼の心の中の不安や焦燥が払拭される。
「…ありがと」
照れくさそうに、でも幸せそうにアトリは笑った。そうして、ぽつりと彼女に礼を言った。
その言葉をしっかりと耳に拾ったは、嬉しそうに笑みを深くするのである。
まだ自分よりも小さな弟は、嬉々として中を見ても良いかと尋ねてくる。
頷いてやればさっそく包装紙をめちゃくちゃに剥がし出した。
不器用な手は、まだと同じくらいの大きさだ。
いつか、その手はもっと大きくなって、ごつごつとした男の人らしいものに成長するのだろう。顔は、父に似るのだろうか。
身長も今でこそまだの方が大きいが、そのうち自分が見下ろされるようになるだろう。
包みの中からようやく取り出したアトリは、すげーと歓声をあげて嬉しそうに手の中の品を角度を変えたりして鑑賞する。
その微笑ましい姿に、心が安らぐ。自分が与えてやった贈り物に、心から喜んで笑顔を向けるアトリがは何より大切だ。
彼の喜ぶ姿に、愛おしそうに目元がだらしなく垂れてしまう。
と同時に、逃れる事の出来ない現実に鈍い痛みがの心を傷つける。
もう、残された時間は僅かしかない。自分の身長を超えてしまう頃には、自分はアトリの傍にはいないだろう。
その時、この子は泣いてしまうだろうか。寂しがり屋で我儘で、泣き虫で優しいこの子は傷ついてしまうのだろうか。
昔のように、泣いて泣いて、と自分を探し続けるのだろうか。
たった一人になってしまうこの子を、自分は孤独という恐怖から守ってはやれない。
それどころか、彼女の存在がこの小さな子供を傷つける。
どうか自分が傍にいてやれる今は、ありったけの愛情を。
そして、必ず来てしまう別れの時のために、自分がいなくてもこの弟を支えてくれる誰かがいてくれることをは祈るしかなかった。
2015/04/01 再投稿
2011/02/28
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