「ちょっと!聞いてるの!?」
いきなり耳元で大きな声が聞こえ、まるで水面にいきなり顔を出した時のように全ての音が鮮明になった。
切れていたテレビの電源をつけたように、意識が現実に突然引き戻される。
相当ボーっとしていたのだろうか、さっきまで自分がいったい何をしていたのか分からなかった。
目の前には使い慣れたグランドピアノが鎮座し、自分はその前に座っている。
両手は鍵盤に乗せられたまま静止していた。そこまで確認してようやく、今自分が置かれている状況を思い出した。
今はオケの自主連の時間でそれぞれが自分のパート練習のために、各々最適な場所に移動し散り散りになって練習している。
彼女は担当のピアノを練習していたのだ。いつものP-103の使い慣れたグランドピアノを無心で引いて。
さっと時計を確認すると、彼女は青ざめた。最後の全体練習が4時スタートなのに、15分も過ぎている。
だから友人が呼びにわざわざ来てくれたのだ。は大急ぎで楽譜を掻き集めた。
「ごめん!すぐ行く」
オケは一人欠けても始めることはできない。全員が指揮者の下で心を一つにして演奏しなければ、絶対に一つの音楽を奏でられない。
なのに遅刻だなんて、絶対にしてはいけなかったのに。楽譜をバタバタとかき集めながら謝罪の言葉を口にする。
「オケの方は大丈夫。今日は急遽違うオケが場所とっちゃったから。ねぇ、どうかしたの?」
その一言に、思わず動きが停止した。は、視線だけで彼女に問いかける。
「だって、なんだか集中してるって言うよりも、何かを振り払うみたいに凄く激しかったから。何か気になることでもあるの?」
彼女の言葉に、脳内にぱっと“ある男”の顔が浮かんだ。
何が嬉しいのか、いい年している大人がまるで少年のように無邪気に笑っているのだ。
彼の顔を思い浮かべた瞬間に、どっと胸を突かれたような錯覚に陥る。
「別に何もないよ。ただ、ちょっとうまくいかなくて、集中し過ぎてただけ」
まるで、自分に言い聞かせるように強く言った。
そうしなければ、気にしているということを肯定してしまう。違う、自分は何も気にしてない。
気にするなんてありえない。
「はっは〜ん。なるほどね〜」
何を思ったのだろうか、友人の恵美は訳知り顔でニヤニヤと笑っていた。
彼女がこの類の笑みを浮かべるときは、大体があまり聞きたくない言葉を吐くときである。
「異国の君の事が気になって気になって仕方ないんだ〜」
「違う、誰もそんなこと一言も言ってないでしょ」
「食事に行かなかったのを今更後悔してるの〜?だから言ったじゃん!チャンスは一回だって!」
「だから!その事じゃないってば!」
「嘘嘘〜顔に書いてあるから!恋しいのです異国の君〜」
彼女は舞台に立つ女優の様な仰々しい動きで、名も顔も知らない男を求めた。
聞く耳を持たない彼女に閉口していると、踊る様に窓際に移動した恵美の顔が訝しげに歪んだ。
彼女の表情に疑問を持ったは、彼女に近付き自分も彼女と同じように窓の外を見下ろした。
「どうしたの?」
「あれ、なんか人だかり出来てるよ」
彼女の視線の先を追うと、確かに校門の様子が少しおかしい。
この大学は小高い丘の上に建設されたため、門を潜ればずっと緩やかな上り坂になっている。
この教室は正門から2番目に近い建物の最上階にあたり、大学の正門が一望できる。
大きく開かれた門のすぐ外に黒い車が3台止まっている。生徒たちはそれを遠目に見る塊があれば、それを避けるように正門を出ていく者たちもいる。
「今日はどこのお偉いさんが来たのかな」
ここは歴史ある音大で、昔から多くの業界人を輩出しており卒業生や業界の大物人が大学を訪れる事は少なくない。
おそらく、今までにないほどビッグな人間が訪れたのだろうと、は結論付けた。
この時はまさか、自分に関係があるなどとは夢にも思わなかった。
は帰宅のために教室までやってくると、教室の前に見慣れた姿を発見した。
は嬉しくなり、彼の名前を呼ぼうとしたところでもう一つの姿を見つけて、言葉を飲み込んだ。
「あ、姉さん」
「よぉ、久しぶりだな」
そこにいたのは、今一番逢いたくない人間と可愛い弟だった。は渋い顔をした。
出来ることなら、今すぐに全速力で今来た道を引き返したい衝動にかられる。
「4日ぶりだから、久しぶりじゃありません」
数分前に暫く逢わないだろう、逢わない方が良いだろうと思っていた人間が、目の前にいる現実にはめまいがした。
来日する頻度が高すぎだろう、どれだけ金持ちで暇人なのだとは心の中で毒ついた。
そんな彼女の心情を察していないのか、察していてあえてそのような表情をするのか、ディーノは笑顔での質問に答えた。
「を迎えに来たんだ、その脚じゃ大変だろ」
「…はい?」
ディーノの形の良い唇から紡がれた言葉を、はすぐに理解出来なかった。
「今日仕事でこっちに着いてさ、家まで送ってくぜ」
以外の女性が見れば、一も二もなく是が非でも同意しそうな甘い笑顔を振りまきながら、ディーノは当然の様に彼女に用件を伝えた。
そこではゆっくりと教室へ歩きながら、冷静に思考を巡らす。
恐らく、というか、ほぼ間違いなく先月の遭難の件で、ディーノは罪滅ぼしに来たのだろう。
だが、当然であるが、は怪我をディーノの所為だとはミジンコほども思っていない。
多少は非があったとしても、への怪我の手当ても適切であったし、頼まれてもいないのにを火事からもかばってくれた。
おかげで五体満足であるし、の怪我の経過も良好だ。むしろ、感謝されても良いくらいである。絶対にはそんなことしないが。
「この間の怪我の件を気にされてるようですが、どうぞお構いなく。大した怪我でもありませんし、迎えが必要な程困っていませんので」
はあくまで丁寧に、冷たく突き放すように言ってやった。これ以上は唯の有難迷惑である。
しかし、ディーノは全く言葉の意味を理解していないのか、自信に満ちた表情で笑みを絶やさない。
またこの顔だ、とは眉間に皺を寄せた。何なんだろうか。
彼のこの自信に満ち満ちた表情は。おまけに、沸点の高さは尋常じゃない。
この男は気分を害したり、怒るという事を知らないのだろうか。
「ったく、相変わらずだな」
ディーノは外人特有の肩をすくめ仕草をした。はそれにむっとしながら
「まだ数日しか経ってないのに、変貌している方が怖いでしょうが」
と、ありったけの嫌みを添えて微笑んでみた。が、ディーノには全く通じない。
それどころか、旧友を見る様な人懐っこささえ感じる瞳でを見下ろす。
「ハハ、確かに。この減らず口は筋金入りだな」
言いながらディーノは、に手を伸ばし彼女の頬をぷにっと摘まんだ。あまりにも自然に伸びてきたディーノの手に、は反応できなかった。
「ひょっひょ!」
頬を摘ままれているせいで、ちゃんとした発音が発せず、は頬を染める。
慌ててその手を払いのけ、抗議をしようとした瞬間、
ふわっ
っと、既視感のある浮遊感が襲った。急に崩れた体制に、は反射的に近くの物を掴んで、バランスを取ろうとしただったが、必要以上に近くにあったディーノの顔に、悲鳴をあげそうになった。
「脚を引きずりながら歩いているの見たら、尚更ほっとけるわけねーだろ。さっ、とっとと帰るぜ」
数日前と同じように、ディーノの甘く優しいテノールの声がの鼓膜を震わせる。
彼の声に惑わされない様に、はきゅっと唇を引き結んだ。そして、思いっきり抵抗する。
「うるさい!いいから下ろしなさい!!」
はディーノの腕の中で両手足をバタバタと動かした。しかし、ディーノには、全く効果がない。
危なげなくを抱きかかえたまま歩きだす。
まだ沢山の生徒が残っているキャンパス内をこんな格好で、あまつさえ目立ってしまうディーノに抱きかかえられながら帰れば、自分は次の日から大学に来れなくなる。
ディーノはどこ吹く風で今にも鼻歌を歌い出しそうである。
彼の楽しそうな顔に、は無性に泣きたくなった。
2015/03/29 再投稿
2012/06/29