暖かいような寒いような




 三十分ほど打ち合いをした土方と名前は、外に設置されている水場に来ていた。
捻った蛇口からまだ冷たい水が流れ出る。それを手ですくって二、三度度顔を洗う。
火照った体には冷たい水が心地よく、顔にかいた汗を洗い流してくれる。
ほうっと息をつき、近くにかけていた手拭いで顔を拭いた。隣にいた土方は、蛇口から直接水を飲んでいる。
名前が新しい手拭いを差し出してやると、土方はそれを受け取る。

「普通の刀より間合いが狭いくせに、躊躇わずに突っ込んでくるなんざ剛毅な奴だな。怖くねーのか?」

小太刀は通常の刀よりも半分、モノによってはそれ以上に間合いが狭くなってしまう。
相当動きの早い人間でなければ、最初の一手は確実に相手方が有利である。
それはつまり、勝つためには最初の一手はなんとしてでもかわさなければならない。
更に避けるだけではなく、相手の間合いに踏み込み自分の間合いへ相手を入れなければならない。

それは単に技術ではなく、己の恐怖との戦いでもある。
確実に相手の最初の一撃は自分に降りかかってくると分かっていながら、それに立ち向かうのは容易な事ではない。
距離を開けてしまえば自分の間合いの外に相手は逃げてしまい攻撃は届かなくなるどころか、相手の間合いの内であれば更に負傷するリスクは上がってしまう。

相手に休む事のない怒涛の攻撃をしつつ、距離を詰め続ける。非常に難しい事である。
それを理解したうえで、土方は名前に問いかけた。
しかし、名前は土方の問いかけの意図が分からずキョトンとした。

「怖いに決まってるじゃないですか」

と当然のように答えるのである。

「斬られたら痛いし、もしかしたら死んじゃうし。立合いだって木刀で殴られれば骨を折ることだってありますし」

実際斬られた事はないが、稽古中に名前は師匠に何度も叩きのめされた事はある。
あれは結構痛かったが、きっと斬られたらそれ以上に痛いのだろうと彼女は想像して身震いした。
想像しただけで身の毛がよだつのに、恐怖心がないなんて事は有り得なかった。
それは、彼女が弱いわけではなく生理現象に近かった。

名前が剣術を始めた頃は幼かったため、振り下ろされる竹刀に臆してよく目を瞑ってしまっていた。
それどころか簡単に竹刀を放り出してしまう事もあった。
昔の名前は、今の名前とは想像ができないほど心身ともに弱かった。
痛みへの恐怖で泣いてしまう事も多々あったが、彼女の師は決してそれが悪い事だとは言わなかった。

何時だって彼女の師は、泣きじゃくる彼女に根気強く手を差し出すのである。
そして、ごつごつと分厚い掌で彼女の髪をかきまわし、小さな体を掬いあげる。
決まっていつも同じ事を何度も繰り返し、小さな名前に言い聞かす。

「でも、それを恥じる事はないと思います。普通の人なら誰だってそうな筈ですから。恐怖は死を恐れている事。死を恐れるということは生きたいという事です。感じる恐怖に身を竦ませるのではなく、生きるための糧としています」

彼女は記憶を手繰り寄せながらどこか清々しそうに言う。
彼女の師は、恐怖する事を決して咎めはしなかった。
恐怖する事が悪いのではなく、恐怖に心を奪われ何もできなくなってしまう事を疎んじた。
死への恐怖、傷を負うことの恐怖は決して捨ててはならない。
何故なら、それは生きたいと思う生物の根源的な感情であり、それを失うという事は生への執着がなくなるということである。

「生きたいと思う事は、大切な事だと思ってます」

名前は胸を張って真っ直ぐに土方を見つめながら言い切った。
それに対して土方は理解できないと言う風に眉を寄せたが、特に何か言うわけではなかった。
適当に相槌を打つと、名前に背を向けて部屋に帰ろうとする。

「朝飯食ったら居間に来い。隊服が届いてる」

遠ざかる背中は、彼女を振り返らず言葉を紡ぐ。

「はい」

振り向かない背中に、彼女は返事を返した。
どうやら、土方は彼女の答えが気に入らなかったらしい。
よくよく考えてみて、名前は怒られずにすんでよかったと思った。
下手をすれば、士道不覚悟で切腹させられそうだ。
昔名前は傷を負う事、死に恐れる事は武士として恥ずべき行為だと聞いた事があった。

その時はあまり実感などなかったが、真選組である彼らと接してからそれが少しばかりの実感を伴って彼女の中に佇んでいる。
それが証拠に局中法度の中には、敵前逃亡を許さずと言う項目がある。
それはつまり、勝てないと分かっていても挑まなければならないと言う事だ。
死という恐怖から逃げる事は、絶対に許されない。

基本的にそんな事にならないように、土方たちが一人でも死傷者を減らすべく作戦を立てる。
しかしそれでも、どうにもならない事はある。
それを悟った上で、死に場所を彼らは戦場に求める。
何よりも気高く雄々しくあろうとする彼らにとって、名前の考えはもしかしたら彼らへの侮辱に値するかもしれない。

剣を取った男たちにとって、それは美学であった。
名前はそれが間違っているとは思わない。
しかし、これからも彼女はこの教えを信じ続ける事だろう。



何故なら彼女は、生きるために剣を取ったのだから。





2016/03/09 再投稿
2012/09/16


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