コトリと、目の前に湯気が上がるカップが置かれた。
仄かに香る甘い香りに誘われながらは小さくいただきますと言って、両手でカップを取った。
向かいに座った一ノ瀬トキヤは、難しい顔をしながらどうぞと呟き自分の分のカップを傾けた。
彼の気難しそうな顔がいつもよりも数段恐い顔になっているのは、の気の所為ではない。しかし、それもには既に慣れっこで、しんと静まり返った部屋にふーふーと暑い液体を冷ますの吐息だけが密かに聞こえるだけでも息苦しさは感じなかった。
一口、二口、がカップに口を付けたのを確認した一ノ瀬は、小さく嘆息してから口を開いた。

「少しは落ち着きましたか?」
「うん、これ美味しいね。もしかしてまたブレンド変えた?」

一ノ瀬がコーヒーに特別に愛着を持っているのをは知っている。何度かご馳走になった事があるが、そのたびに彼は独自のブレンドを披露してくれた。
両手で持ったカップを両肘をつきながらくるくるとまわして見せる。

「話を逸らさないでください。全く、あなたはいつもいつも」
「ため息ついたら幸せが逃げてしまうよ?」

一ノ瀬は大きなため息をついて、小姑の様に小言を言いだした。
はそれも聞きあきているので、ちょっとおどけて言ってみせた。

「誰の所為だと思っているんですか。一体これで何回目ですか・・・」

一ノ瀬は右手を眉間にもっていき、皺が深く刻まれたそこを抑えた。それと同時にまた大きなため息が、彼の形の良い唇から洩れる。
その仕草に、は少しばかりの罪悪感を覚える。
数を忘れてしまうほど、彼女は彼の部屋へと駆け込んでいる。

元クラスメイトであり、一十木のルームメイトだった一ノ瀬は、に対しても一十木に対しても他の誰よりも理解がある。
だからこそ、自然と脚がここへ向かってしまうのかもしれない。
が一ノ瀬の部屋に駆け込む時は決まって、一十木音也と派手に喧嘩をしたときである。
理由は様々だが、話をした一ノ瀬は決まってくだらないと一蹴する。

確かに、冷静になったもそうだと思う。だが、何故だろうか、当人達にとってその時は物凄く重大で、譲れない様に感じてしまうので。
結果、喧嘩をしてはこの部屋に駆け込み、散々喚き散らした後は一ノ瀬の入れてくれた甘めのコーヒーを飲むのである。

「ごめんね、イッチー。反省してます。でもね、イッチーが優しいから甘えてしまうの」

は申し訳ないと真剣に感じているが、彼女の性格上それを素直に表現できない。
少し照れを隠した、素直な言葉を唇に乗せる。
両手を合わせて拝むように一ノ瀬を見上げれば、再度彼から大きなため息が漏れた。
それでも唯それだけ。彼は決して彼女を拒絶したりしない。

 は知っている。一ノ瀬トキヤという人物は、態度や性格に似合わずとても優しい配慮ある男だという事を。
こうやって小言を言おうが何回ため息をつこうが、決して一ノ瀬はの事を邪険には扱わない。
元クラスメートで元プレパートナーに対する配慮と、彼のもともとの人柄がそうさせるのだろう。

 は知っている。一ノ瀬トキヤという人物は、態度や性格に似合わずとても義理堅く人情味のある人間だという事を。が来る少し前、一十木音也もここを訪れている事をは予測済みである。
それを見越してわざわざすらして来るあたり、の場合はかなり性質が悪いが。
一十木の相手をして疲れているだろうに、彼はが訪れても部屋に招き入れてくれるのだ。

「君を見てると、自分の不甲斐無さが良く分かるよ」

ポツリと呟いた言葉は、彼女の思っていた以上の大きさであった。完璧すぎる優しい友人と暖かく甘いコーヒーが、珍しく彼女の弱い部分を少しずつ押し出してゆく。
静かな空間に染み入る様に響いた声に、向かいの一ノ瀬が何とも言えない顔をした。

「やっぱり、あたしと音ちゃんは、合わないのかな」

茶色い液体に移る自分の顔を見た。それはなんとも不細工で、大好きな人の顔を思い浮かべると余計に惨めったらしく感じてくる。
アイドルになる為に生れてきた様な彼は、向日葵の様に笑い歌い沢山の人々を笑顔にする。
対して、自分自身はどうだろうかと考えてみる。人を楽しませる事も出来ないくせにこだわりがあって、無駄に自尊心が強い。
そんな自分が、到底彼の様な人の隣に並ぶなんてどうかしている。
喉が詰まって、言葉がなかなか出てこない。裏返ってしまいそうになるのを必死に抑える。改めて、自分の不出来が浮き彫りになる。

「あたし、音ちゃんにもトキヤ君にも迷惑ばかりかけてるね」
「何を今更なことを言っているんですか」

一ノ瀬は少しとげを含んだ、しかし穏やかな声で相槌を打った。その耳障りの良い音が、余計に彼女の劣等感を刺激する。


皆の優しさに甘えている。


何時だって自分に沢山の物を与えてくれるのに、自分は一体何を与える事が出来ただろうか。
いつもいつも迷惑をかけないようにする事ばかり考えて、そればかりで、なんの役にも立たない自分がどうしようもなく悔しい。
ただ一人、大切な人さえ支えられない自分。そう思っていると、込み上げるものがありはさっと顔を俯かせた。

「今日は、やけに感傷的ですね」

一ノ瀬は席をはずすとすぐに戻ってきて、柔らかい生地のハンドタオルを彼女に手渡した。

「もう、随分寒くなったからかな」

はありがとうと震える声でそれを受け取ると、目元にそれを当てた。
早くこんな情けないものなど、自分の奥に奥に引っ込んでしまえと強く目に押し当てた。

「ああ、こすらないでください。目元が腫れますよ」

いつもは厳しいことしか言わないくせに、こうゆう時は必要以上に彼は優しい。
その優しさが胸に染みて余計に涙が零れ落ちる。
涙が出れば出るほど自分の不甲斐無さが浮き彫りになり、どうしようもない衝動が唇を動かせた。

「どうせならっ、消えてしまいたいっ!!」

こんなにも誰かに迷惑をかけなければ生きられないのなら、いっそのこと消えてしまえたらどんなに良いだろうかとは思った。
そうすれば、大好きな人を傷つけることも大切な友人を困らせることもないのに。
本当は喧嘩なんてしたくないのに、彼に笑っててほしいのに。強く手首を掴まれて、目元に押さえつけていた手を引き剥がされた。
涙でぐしゃぐしゃになってしまった顔を上げると複雑な顔をした一ノ瀬がいた。

「冗談でも、そうゆうことは言わないでください。そんな事を言わせるために、私は貴方の話を毎回聞いているのではありません」

その確たる思いの籠った言葉が、何を言いたいか分からないほども子供ではない。
その温かさに、また涙がこぼれた。複雑だった彼の表情がふっと緩むと

「何より、貴方が誰よりも大切にしている男が悲しみますよ」

言いながら一ノ瀬は優しく彼女の涙を掬った。


ピンポンピンポーン


何とも絶妙なタイミングで、部屋にインターホンの音が響き渡る。
はその音にビクリと肩を揺らし、一ノ瀬は大げさにため息をついた。


ピンポンピンポーン


相手はどうやら酷く短気らしく、一ノ瀬が答えない僅かな間隔にさらにベルを鳴らす。
一ノ瀬のイライラとした空気が、一段と膨らんだのをは正確に感じ取った。

「音也の奴、五月蠅い」

米神に青筋でも立ちそうな空気の一ノ瀬は、玄関に振り返って呟いた。

「お、音ちゃん?」
「ええ、今日はもう来るなと言っていたのですが、あの様子だと貴方を探しにでも来たんでしょう」

インターホン一つでそこまで分かってしまう一ノ瀬も相当なものだが、そこに突っ込むほど今のには余裕がなかった。音也と聞いて、彼女の心が震える。
会いたい、会って顔を見てごめんねと言いたい。仲直りがしたい。
そう思うのに、彼からの拒絶の言葉が出てきたらどうしようという恐怖で、心がぐちゃぐちゃだ。
ノ瀬は玄関へ向かおうと彼女に背を向けるが、は咄嗟に彼の手を掴み制止させた。

「どうしました?」

どうしましたなんてしらじらしい。
彼は分かっていながらわざわざに問いかけている。
彼の顔にありありとこれ以上面倒事はやめてくれと書いてある。

「いや、だって」
「だっても何も、ここにいても何も始まらないでしょう。貴方の思っている事を貴方の言葉で伝えてください」

彼は顔だけ振り返りながら、いつもどおりに厳しく正しい言葉を彼女に降りかける。
確かに、そうだ。これ以上ここにいたところで何も進まないし、何も解決しない。
彼の言ってる事は至極正しいのだが、如何せん勇気が出ないのである。

「でなければ、音也も納得しませんよ」

捨て台詞の様にそれだけ言って、彼は玄関に向けて歩き出した。離れていく一ノ瀬を止める言葉などにある筈もなく、だらしなく彼女の両腕は垂れ下がり彼はすぐに見えなくなってしまった。
どうしようどうしようとがそわそわしていると、玄関が開かれ音也の元気な声が聞こえてきた。

「もうトキヤ!出てくるの遅いよ!」
「五月蠅いですよ音也。今何時だと思っているんですか」

リビングでも音也と一ノ瀬のやり取りが聞こえてくる。
その大好きな声に耳をすませ、彼の顔を思い浮かべれば顔が見たいという欲望が湧いてくる。
本人も気がつかないうちに、の脚は玄関に向かっていた。

「そんなことより大変なんだトキヤ!が部屋にいないんだよ!」

大切で、大好きな人が自分の名前を呼んでいる。たったそれだけのことが、こんなにも苦しくなるくらい嬉しい。その声にゆっくりと足が導かれる。

「分かりましたから落ち着きなさい。近所迷惑です」
「あ、・・・」

、と彼に呼ばれ見つめられるだけで彼女の心は大きく波打った。
玄関の近くまで来ると、トキヤの陰に隠れた大好きな人が垣間見えた。
そうして、彼も彼女に気付き無意識にその名を言葉にする。
本当は大好きで大好きで片時だって彼の傍を離れたくなくて、どうして喧嘩なんてしてしまったのだろうかと彼女は罪悪感に苛まれた。


それでも、自分を探し自分の名を呼ぶ彼がどうしようもなく愛しくて


「音ちゃん、ごめんなさい」

その言葉が口から零れ出るのと、彼女の頬を涙が滑るのとは同時だった。

「ごめんなさい、ごめんなさい音ちゃんっ、だから」

ふわりと彼女は風の流れを感じた時、大好きな温もりが彼女を包んだ。大好きで大好きで堪らない温もりが、自分を包んでいる。 それだけでの瞳から涙が零れだす。

「いいよ、もう謝んなくて。俺も反省してる。だからもう泣かないで」
「うん、ごめんね」
「だから謝んなくて良いって」

音也の腕の中で安心して泣き笑いすると、その彼女を抱きしみて幸せそうにする音也は至極幸せそうだった。

「・・・音也・・・」

まるで、地を這うような低い声がして、二人の背筋にスーッと冷たいものが下りた。そちらの方を見てみると、負のオーラを全開にした一ノ瀬がいた。

「と、トキヤなんかいろいろごめんね!」

音也は一ノ瀬が背負っている不穏な空気におびえながら、勤めて明るく礼を言った。

「二人が仲直りをした事は、友人としては大変喜ばしい事です。・・・今まで音也、貴方は馬鹿だ馬鹿だと思っていましたが、ココまで馬鹿だとは思いませんでした」

言いながら、一ノ瀬は彼の足もとを指差した。

「「あ」」

音也の足元を見ると、玄関で脱がなければならない筈のスニーカーが履いたままになっていた。そして、玄関の方を見やるとくっきりと彼の通った跡がついているのだ。





 一ノ瀬のお説教が始まってから既に一時間は経つだろうか。
いい加減正座した脚が二人とも痛くなり感覚がなくなってきた。
そろそろ解放してほしいところだが、彼のお説教はまだまだ続きそうである。

隣に正座をしている音也が、一ノ瀬に気付かれない様にそっと彼女に耳打ちをする。

「なんか、ごめんね。まで一緒に怒られちゃって」
「ううん、音ちゃんがいるから平気、大丈夫だよ」

本当はもう足の感覚なんてなくなっていて、限界だった。しかし、それを吹き飛ばすほどの存在が隣にいる。

「へへへ、そっか」

照れて笑う音也の笑顔に、は改めて彼の笑顔が好きだと感じた。

「音也!!聞いているんですか!?」

一ノ瀬の厳しい声が響き、お説教は更に続くのである。





2015/03/21 再投稿
2013/12/21