11月後半にもなれば、昼はすぐに夜に飲み込まれる。
建物の中だといえど、廊下は酷く冷え込んでいる。いつも賑わう校舎の中は、下校時間をとっくに過ぎているためひっそりと静まり返っている。
人気のない廊下を寒さに震えながらは歩く。

両手をこすり合わせ、少しでも暖を取りながら。しかし、今日は特に冷え込んでいるせいか、少しも彼女の手は暖かくならない。
も本来であればさっさと帰宅しているが、クラス委員の仕事で月一回発行している新聞製作の仕事が今日に限って回ってきた。
タイミングの悪さに辟易しつつ、教室に向かっていそいそと歩を進めた。

教室で待っている筈の愛しい存在を思いながら。
忍ぶ恋に胸を焦がしながら、は教室の扉を開いた。

「あれ」

しかし、そこにいる筈の彼女の思い人はおらず、廊下同様に冷え切った空っぽの教室だった。
彼女の新聞製作を手伝うと言った一十木音也は、図書室へ向かった彼女を教室で待っていると言っていた。
だが、教室には誰もおらず夕陽で赤く包まれる無機質な箱だけだった。

「音ちゃん…トイレ、かな?」

ぐっと寒さが増した教室の扉を閉め、一人席についた。持ってきた資料を開き、新聞製作を始めた。
寒さで冷え切った指先が震えない様に、ペンをグッと握り押しつけるように文字を書きだした。
待ち人が少しでも早く来てくれる事を祈りながら。





――――1時間後――――





 一十木音也が現れないまま、作業は最終段階に入っていた。作成後のコラムを書いて、作っておいた飾りを張り付ければ完成する。
なのに、彼はまだ現れない。彼女の携帯電話にも何の連絡もない。
連絡しようにも遠慮が先に立ってしまい、彼女は連絡する事が出来ない。
冷え切った教室の空気が、彼女の心まで凍てつかせていく。震えるほど心も体も寒さに声を上げている。

「音ちゃん、早く来て」

口をついてしまった言葉が、行く宛ても無く転がって消えていく。
は異常に寒さを覚えた。俯いた顔更に下げると、ふと耳に届く音があった。
足音と彼女の耳に聞きなれた大好きで大切な人の笑い声だ。
彼女は嬉しくなって立ち上がろうとしたが、腰を少し浮かせたところで体がそれ以上動く事を拒否した。

彼女の待ちわびていた愛しい彼の声だけではない足音と、愛らしいソプラノの笑い声だ。
音也はクラスでもムードメイカーで人気者だ。いつも沢山の人に囲まれ、持ち前の明るさで周りを笑顔にする。
彼が誰かと一緒にいるなど日常の一コマでよくある光景である筈なのに、はどうしてか胸が鈍器で殴られた痛みを感じた。
彼女は静かに腰を落とし、元の様に座りペンを握り込んだ。しかし、紙面上に文字は踊らない。

「ごめん!」

勢いよく扉が開かれ勢いよく一十木音也が教室に入ってきた。
それまで寒々と色のなかった教室が、彼の周りだけ鮮やかに色が戻ってくる。
彼女が待ち続けていたその人が現れたのに、は音也に一瞥もくれず止まっていた筆を動かし始めた。

「いいよ、もう終るから」

は作業を続けながらそっけなく返事をした。ぐっと彼女の眉間に皺が寄る。
書き殴った文字を消しゴムで消し、ペンを机に転がした。
今度は紙にペタペタと糊を塗る。彼女はざわざわと騒ぐ心を押さえつけるように、ぺたりとそれを張り付けた。
音也は空気同様に冷え切ったに近付いた。

「本当にごめんな、終わるの待ってるよ」

言いながら彼はの隣に座った。
グッと奥歯を噛み締めて、彼女は出そうになった言葉を飲み込んだ。彼女は自分の顔を見られない様に、無意識に顔を彼から背けた。

「大丈夫、本当にすぐ終わるから、もう遅いし先に帰ってて」

彼女の気持ちとは裏腹に、口から出てくるのは彼を突き放す様な言葉だらけだ。
自分の吐く言葉に、声に苛立ちながら彼女は視線を下げた。
視界の端に入る音也のつま先は、しっかりと彼女を向いている。対するのつま先は明後日の方向を向いている。
そんな些細な事にさえ、彼女は断崖絶壁を見上げるような心持になる。
彼女は自分と音也には、決して埋められない隔たりがあるのだと実感した。

「ねぇ、やっぱり怒ってる?」

音也は遠慮なく彼女を覗き込みながら、の機嫌を窺った。
彼女は今度は体を少し逸らしながらその視線から逃れた。

「怒ってないよ」

声はとても穏やかだが、彼女の心の中は未だに吹雪いている。いつもなら彼が傍で笑っているだけで、彼女の心は真夏の様に火照る筈なのに。

「もともと私一人の仕事だったし、そんなに大変じゃなかったし。本当にもう大丈夫。怒ってもないからさき」

ふわりと後ろから伸びてきた腕にからめとられて、グッと後ろに引っ張られた。びっくりして前かがみになると、彼女のすぐ後ろで音也が少しムッとしたのを感じた。

「じゃ、なんで俺の方見てくれないの」

彼の拗ねた問いかけに、彼女の心がぐらりと揺れる。自分の未熟さにもやもやしつつ、気を抜けば両足が床から浮きそうになるのを何とか持ちこたえる。
すぐにでも振り向いて抱きしめたい衝動と無駄な意地が鬩ぎ合う。

「本当にごめん、俺、を一人にするつもりなんか全然なかったんだ。絶対絶対もう約束破らないから、お願い許して」

そのあまりに切ない声色に

「ちがう」

は思わず声を上げていた。

「え?」

思わず出てしまった大きな声に、はハッと口元を押さえた。しかし、音になったそれはもう消し去る事など出来ない。
彼女の脳裏に、彼女の後ろできょとんとした顔をしている音也の表情が目に浮かぶ。
は顔に熱が集中して泣きそうになる。

「違う、怒ってなんかない。ただ、教室にいなくて…一人で…寒くて…でも、音ちゃんがいなくて………音ちゃんは一人じゃなくて…」

それまで押し留めていた心の欠片が、言葉と音になってボロボロと零れ落ちる。
彼女は羞恥心と後悔に、穴があったら更に掘って埋まりたいと猛烈に自分に嫌気がさした。
自分勝手な思いを彼に押しつけて、挙句の果てに彼を責めている言い方。
猛省の中で、音也に嫌われたと彼女は確信した。
が一人でパニックを起こしている後ろで、クスクスと音也が笑った。

「あ〜〜〜、もう!可愛いな!」

言うや否や、音也は今度は手加減なしにを自分の胸の中に抱き込んだ。
勿論、の力が彼に叶う筈もなく、彼女の両脚は簡単に宙に浮き音也の膝の上に乗った。

「ちょ!?音ちゃん!?」

強い力で逃すまいと後ろから抱きすくめられれば、は成すすべなくされるがままになるしかなかった。
音也は彼女の肩甲骨あたりに額をぐりぐりとすりつけながら、言葉にならない衝動をやり過ごそうとしていた。

「…あの、そろそろ離して」
「ん〜もちょっと」
「早くしないと帰れないよ」

が言うと、しぶしぶであるが音也は彼女を解放した。彼女はホッとして椅子に座り直し、残りの作業に取り掛かった。
しかし、それも彼女の目の前の椅子に移動した音也に、間接的に妨害をされる。
の目の前には、星でも飛んでいそうな天使の笑顔がある。音也の幸せに溢れた笑顔が、間近に迫りは更に心を乱される。これでは作業に集中できないと、今度はまったく違う意味では泣きたくなった。

「あの」
「ん?」
「えっと、その、先にか」
「嫌だ。が帰るまで俺帰んないから。さっき一人にしないって言ったばっかだし。一緒に帰ろう」

の言葉を遮り、近かった距離を更に縮めてくる。彼の言葉は凄く嬉しく感じるが、彼女の心臓が今にも停止してしまいそうなほどドキドキと鳴り響く。

「は、はい。じゃ、作業早く終わらせるから、その、近いんですが」
「そう?」

悪気のない無垢な笑顔が、彼女の心臓を壊れそうなほど囃し立てる。
彼女は心の中で、集中集中と念じながら作業を続ける。少しでも気を紛らわそうと、言葉を紡ぐ。

「あのね、今日一緒に晩御飯、何かあったかいものでも食べない?」
「うん!そうしよう!」

音也のキラキラした笑顔が、更に輝きを増す。

「何がいいかな〜うどんとか、ラーメンも良いな。うわ〜食べ物の話したらすげーおなか減ってきた!」
「うん、そうだね。それでね、お鍋なんかどうかなって」
「うん!!鍋いいね!そうしよう」

彼の嬉々とした気持ちを全身で感じ、自分の心が躍るのを不思議に思いながら緩み始める口元を止める術を彼女は知らない。

「それでね、お鍋だったらトキヤ君やハルちゃんやなっちゃん達を誘って皆で」
「それはヤダ」
「え?」

賛同の返答のみ想像していた彼女にとって、彼の拒否の言葉は驚き以外の何物でもなかった。
は驚きと困惑に思わず顔を上げた。その先にあったキラキラと輝く瞳に、彼女は息をのむ。

「だって」

彼は得意満面の笑みで、内緒話でもする様に少し声を潜めた。

「皆一緒だったら、の事、独り占め出来ないだろ」

寒い寒いと叫んでいた彼女の心が、今度は熱い暑いと焼け焦げそうな焦燥に震えだす。





2015/03/12 再投稿
2012/07/30