冬の寒さが和らぎ、人々の記憶から冬の厳しさが忘れ去られたそんなころ。陽が長く持つようになり、恵みの雨が大地を豊かにする。
古い日本庭園のような巨大な屋敷の庭は、昨日降った恵みの雨によってきらきらと幻想的に輝いている。庭には四季折々の草花が植えられ、庭師によって綺麗に整えられている。今の季節は芝桜や露草や水菖蒲などが庭の色彩を飾っている。
屋敷の中も手入れが行き届いており、古い邸宅にもかかわらずその輝きは失われておらず、趣がある。家具の一つ一つが骨董品価値がありそうなものばかりである。物によっては時代錯誤の使いようのないようなものまでいまだに健在である。その屋敷の一室に、今日で五つになるこの家の若君が、女中によって紋付き袴を着せてもらっているところであった。
「さぁ、恭弥様出来上がりましたよ」
女中は目の前の幼児を誇らしげに、どこか母のような優しい眼差しで見つめた。対して目の前の幼児は、無表情、どちらかというとむすっとしたような無愛想な表情である。この小さな年にもかかわらず、目鼻立ちはすっきりとしておりしっかりとした顔つきをしている。
将来が楽しみに思えるのだが、いかんせん仏頂面が既に板についている。
「この袴も、今年でもう着れなくなりそうですね。新しいものを新調しましょう」
対して女中はそれに慣れているのか、幼児らしからぬ無愛想な表情で立っている自分の主の着物の具合をにこにこと楽しそうに確かめている。使用人にしてはまだ若く、幼児と兄弟と見られても何らおかしくない年齢である。
「ねぇ、きょうはなんのひなの」
彼女は主の唐突な問いに、一瞬きょとんと眼を丸くするとにっこりほほ笑んだ。
「恭弥様のご生誕の日ですよ」
その答えに小さな主は少し眉根を寄せた。
「ぼくをばかにしてるの。それくらいしってるよ」
幼児はちらりと視線をその部屋に飾られてある掛け軸へと注いだ。その掛け軸は毎年必ずこの日にだけ飾られる珍しい逸品である。そして、屋敷中がこの日だけは、いつもと異なる掛け軸を1日だけ飾るのである。全てが同一ではないが、どの掛け軸もあるものが必ず描かれている。この部屋にかけられているのは金と赤の大きな鯉が滝を昇る雄々しい姿が描かれていた。
「これは大変失礼いたしました。本日は子供の日でございます。古くから子供の、特に男児ですね。健やかな成長を祈り、祝うのです。最近では唯の休暇という面が大きいですが」
は恭しく自分より年下で尊大な主に謝罪しながら、丁寧に説明をする。幼児は納得したのかしていないのか、自分から質問をしておきながらふうんと気のない返事をした。
はそれに気を悪くした風もなく、少し散らかった部屋を片づけ出した。すると、幼児はまたに声をかけた。
「ねぇ。きょうはぼくのたんじょうびで こどものひなんでしょ?きみは ぼくに なにもすることないの」
それが当たり前のように、小さな君主は言葉を紡ぐ。普通なら、自分よりも年下の子供にこのような言われ方をすれば、誰でも頭にくるというものであるが、この仕事に就いて長い時間がたっているためは特に気に障ることや怒りを覚えることもない。もともと気が長かったのもあるが、これが雲雀家の教育の賜物ということである。
彼の言わんとしていることがなんなのかを正確に読み取ったは、少し考える風な仕草をした。
「そうですね。私のような人間には、恭弥様に大層なものを差し上げることはできませんが…少しお待ちください」
彼女はそういうと、小さな主を残し部屋から退出した。
それ程時間をおかずに、彼女は主の待つ部屋まで戻ってきた。彼女の手に握られていたのは、その華奢な手よりも1回りほど大きな折り紙だった。
「これをどうぞ。丹精込めて作りました」
主の前に膝をつき、視線を同じにすると穏やかな笑みを浮かべて作ったばかりのそれを彼に差し出した。
「なにこれ。」
「あら、恭弥様はかぶとをご存じありませんでしたか?」
彼女の問いに、幼児はぶすっとますます不機嫌そうな表情になる。
「それくらいしってる。でも、どうみてもかぶとじゃない」
本物を知っている彼にとって、彼女のおったそれはどうやら彼の知識の中の兜には合致しなかったようである。は苦笑を洩らすと
「こうすればかぶとっぽくなりますよ」
言いながら彼女は主の手からそれを受け取り、小さなまあるい頭に被せてやった。触り心地の良さそうなその頭は、すっぽりと収まってしまった。
「これは大昔から男児の健やかな成長を願って織られるものです。恭弥様が元気に逞しく育ち、いつの日か雲雀を背負ってお立ちになるのを私は心から望んでおります。」
は優しく彼に語る様に、諭すように言葉を紡ぐ。眩しいものを見るような、慈愛に満ちた瞳だ。彼女の厚意を感じた小さな君主は、それでもやっぱり尊大に胸を反り
「しょうがないからもらってあげる」
と、どこまでも上から目線で彼女に告げるのである。
「ありがとうございます。その日が来るまで、私は心をこめて貴方にこれをお送りし続けるとお約束します。」
彼女は小さな小さな紅葉のような彼の両手をそっと、握りしめた。彼に降りかかる沢山の試練が、どうか彼を強く、無事に育つようにと心から祈って
「恭弥様、どうか健やかにお育ちください。お誕生日おめでとうございます」
04/06/2011