畳とは違い、板間の床は酷く冷える。畳は熱を保温する機能があるが、板はただ固く冷たいだけである。
冬用の分厚い足袋をはいているとはいえ、脚先から這い上る冷気は相当のものだ。
ほう、と息を吐けば、それはたちまち白い靄となって霧散してしまう。
は冬の寒い冷え切った空気の中、手をこすり合わせながらまだ皆が起きていない時間帯に自分のために宛がわれた部屋を出た。
出来るだけ音を立てない様に、慎重に歩く。
しかし、冬場の板はとても繊細なのか、澄みきった空気がいつもより音を大きく響かせてしまうのかキシキシと不快な音がする。
それでも出来るだけ音を立てない様に慎重に歩き、はやっと炊事場に辿り着いた。
戸を開けば、キンキンに冷えた空気が彼女の全身に突き刺さる。
は、ぶるりと身震いした。
もう少しすれば隊士達が起きだし、早朝稽古が始まる。それが終われば朝餉の時間である。
大食らいの隊士達が一斉に押し寄せる食事時は、ある種の合戦状態である。
朝餉が遅れれば、彼らの朝の隊務にも支障きたしてしまうかもしれない。
ここで寒さに後れを取っている場合ではないのである。
朝餉が終われば、片付けに洗濯、また食事の準備と一日が始まれば休んでいる暇など彼女にはない。
はかまどに一番に火を入れ、冷え切った炊事場の空気を温めながら慣れた手際で支度を進めていく。
一人で大人数の食事の用意をするのは毎回骨が折れるが、もう随分慣れてしまった。
彼らが美味い美味いと笑いながら食べている姿を見れば、一時の苦労など一瞬にして消えてしまう。
今度は何を作ろうか、どうすれば彼らをもっと喜ばせられる事が出来るかと思案に暮れるのである。
賑やかな隊士たちに隠される様にして、物静かな彼も美味いと言ってくれる。
毎回しっかりと味わいながら、こちらの苦労を労ってくれる。
豪快ではなく、快活でもなく騒がしくもなく。
ただひっそりと包むような彼のその言葉が、は何よりも聞きたかった。
水を汲まなければと、桶を手に勝手口に出たところで入ってきた誰かとぶつかった。
「わ」
反動で少しふらついたが、すぐにを支える為の腕が伸ばされた。
逞しい腕に支えられながらその元をたどる少し心配さを含んだ瞳とかちあった。
「一君」
思わぬ人の登場に安堵と驚きを含み彼の名を呼んだ。
「すまない、驚かせるつもりはなかった」
少し反省しているのだろうか。動かない表情に、少しばかりの申し訳なさが垣間見える。
「ありがとう」
は斎藤に支えられながら朗らかに笑った。
斎藤も彼女の笑顔を見て納得したように頷き、支えていた腕を下ろした。
先程まで冷たい空気からを包んでいた温もりが去り、再度冷気が彼女を包む。はささやかな温もりを名残惜しみながら、朝っぱらからこんなところにいる彼に疑問を投げかけた。
「今朝はどうしたの?朝餉の準備はこれからだから、何もないんだけど」
時折、隊士達の中には朝稽古の前に何かをつまみ食いしにくる者がいる。
朝稽古は体力を消耗するため朝餉まで体が持たない者もいるので仕方ないのである。
そういった隊士達のために、は朝餉の準備をしながら握り飯など簡単なものを用意している。
しかし、そういう場合は決まって朝餉の準備が終盤に向かっている時に訪問されるため、朝餉の準備に取り掛かり始めた今は流石に何もない。
「水を汲みに行くのか」
斎藤はの質問に答えずに、己の疑問をに投げかけた。彼女が今手に持っていた桶を見てそうだと推測を付けた様である。
「うん」
自分の質問に答えずに疑問が返ってきたが、それはいつもの事なので彼女は素直に彼の質問に答えた。
「俺が行ってこよう」
「え」
言うが早いか、彼は彼女の持っていた桶を引き取るとさっさと勝手口から出て行ってしまった。
置き去りにされたは、数瞬ポカンとしていたが、彼女の中で合点がいきふんわりと笑った。
口下手な、人付き合いの上手くない彼だからこそ先に行動に出た愛らしさにの心は暖かくくすぐられる。
水を汲んで戻ってくれば、他にも何かできないかと提案するのは目に見えている。
としては、出来れば彼には彼の仕事に専念してほしい。そのためにがこの屯所にいるのだから。
それでも、彼の温かさに真冬にもかかわらず、春先の優しい風が彼女の心を撫でた。
2015/03/17
2013/12/30